サルトル哲学に、即自と対自という概念がある。ぼくは「存在と無」でそれを学んだが、元々はヘーゲルが初めに使ったのかも知れない。サルトルはハイデッガーから学んだと言われているけれど、ヘーゲル哲学を継承しているとも言われている。ここで取り上げたいのは、自分には即自と対自の2種類の自分がいるということだ。生物的で身体的な自分が即自で、今あると感じている物体としての自分がある。もう一方の自分は、意識上の考えている主体としての自分だ。思考する主体であるから押し進めれば、普遍的な自己という主体にもなり得る。だから、池田晶子のように、「なぜ、普遍的な私は個別の私という存在を生きることができるのか?」という問い…