三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)
1569年、三増峠で行なわれた武田信玄と小田原北条氏のと間の合戦。信玄は北条氏康の小田原城を囲んだが、篭城策は手堅く三増峠を越えて甲斐に戻る進路を取った。それを知った氏康は挟み撃ちにする事を計り激戦となった。武田軍はそれを見通したように山県昌景の一隊を韮尾根に置き、高所から襲撃し逆に挟み撃ちにしたため、北条軍は総崩れとなり敗北した。戦国最大規模の山岳戦として有名。
NHKBSプレミアムの「英雄たちの選択」で、「三増峠の戦い」が取り上げられました。 www.nhk.jp 今回の記事は、この番組が放映された後に「三増峠の戦い」繋がりで書かれました。 ・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…━…‥ 三増合戦の結果、どの様な影響が有ったのか、一目で解るものが、この北条新三郎氏信の墓(供養塔)です。北条氏信は北条早雲の末子、北条幻庵の二男で、兄が病没したため、久野北条氏の家督を相続し、小机衆を統括する立場に有りました。武田信玄の駿河侵攻に端を発した争乱の中で、氏信は北条方の援軍として駿河蒲原城に派遣されます。蒲原城はさった峠東側に築城された要衝で、駿府を占領する…
北条氏の関東での基盤を確立した北条氏康 今回は北条氏康武田信玄が繰り広げた山岳戦・三増峠の戦いというイマイチ知名度が低いマニアックな戦いを紹介している。しかし実はこの戦い、影で戦国の趨勢を決めたと言えるだけの影響力を持っていたとも言える戦いであると言う。 まずは北条氏康であるが、関東の覇者となった北条氏の3代目である。北条氏と言えばやはり初代で乱世の姦雄であった北条早雲が圧倒的に有名であるが、実際に北条氏の基盤を整備した人物として、専門家などからマニアックに評価が高いのが北条氏康である。 北条氏康は27歳で北条氏の当主となる。当時の北条氏は伊豆・相模を中心に武蔵から下総まで勢力を伸ばしていた。…