農業技術者。「コシヒカリ」「ササニシキ」などの原種として、日本最初の水稲品種・農林1号を生み出した。1888 年、京都生まれ。
東大農学部を卒業して、新潟県長岡市にある県立農事試験所に育種主任として赴任。
昭和2年、雑種5代の時からこの品種を手がけ、昭和6年の「農林1号」として育成。
早生で良品質・良食味、その上多収であり、農家はもちろん市場にも歓迎され、 急速に普及。昭和16年には北陸・東北を中心に17万ヘクタールにまで達し、10〜20%の増収をもたらしたという。
また、農林1号が真に名を上げたのは、敗戦直後の食糧危機の時である。昭和21、2年の端境期に、北陸から送られてきた早場米は、飢餓におびえる国民の救いとなった。 農林1号の名は救世主のように国民に知れわたっていった。
だが、並河は、昭和12年、間近に迫った栄光の日をみることなく、突如自らの生命を絶っていた。享年41歳。
戦前の農業研究の抑圧的な雰囲気が、彼を死に追いやったといわれる。