幕末の政治家(1819.04-1864.06.25).老中.下総国関宿藩主. 父は旗本の大草高好.関宿藩主久世広運の養子. 1830(天保元)年遺領相続.37年奏者番,43年寺社奉行兼帯,48年西丸老中,51年本丸老中と昇進.58(安政5)年に大老井伊直弼と対立して老中解任. 桜田門外の変後に再任され,老中首座.安藤信正とともに政局収拾にあたるが,62年に坂下門外の変に遭難して安藤信正が失脚すると老中を辞任.直後,隠居永蟄居を命じられた.
タウンゼント・ハリスがアメリカ合衆国を代表し、江戸城本丸表向の大広間で徳川家定と対面したのは安政四年十月二十一日のことである。 それに先立ち、幕府要路の人々は、この一件が内(・)に齎す衝撃度合いを考慮して、なんとかそれを最低限に押し止めんと涙ぐましい努力を重ねた。 日米追加条約の時点で既に、世情は沸騰の兆しを見せつつあったのである。 攘夷論の卸問屋、水戸の烈公斉昭などは、「此度夷情切迫之儀に付存寄申上候次第」という書き出しからなる激越な建白書を送り付けて来さえした。 (Wikipediaより、徳川斉昭) 無思慮に、なんの配慮も施さず、事を実行に移してしまえばそれこそ火薬庫に油を撒いて松明を投げ…
公武合体 桜田門外の変以降、さまざまなところで攘夷の嵐が吹き荒れていた。 また、井伊直弼が勝手に通商条約を結んだことにより、攘夷派の幕府・開国派への反感も高まっていた。 井伊直弼の後に老中になった安藤信正と久世広周は攘夷の熱を抑えるために、 「まずは幕府の威信を回復させないと!」 と考え、「公武合体」を画策することに決めた。 公武合体とは、 幕府と朝廷が一体となって国難にあたり、混乱した政局を安定させようという方法だ。 幕府は朝廷の関係を強めるために孝明天皇の妹である和宮親子内親王を将軍徳川家茂に嫁がせようと何度も画策するが、拒否される。 しかし、幕府は朝廷に「攘夷の実行」を約束することにより…
数百年続いた江戸幕府も、徐々に乱れが目立つようになってきて崩壊へ向かっていきます。このころの混乱をテーマ別に分けてみていきましょう。 もくじ 貿易の実態 影響 安政の改革 将軍継嗣の対立 一橋派…改革志向 南紀派…保守志向 結果 公武合体策 貿易の実態 1859年~ 長崎・横浜・箱館で貿易開始 中心地は横浜 取引には銀を用い、同種同量交換の原則にのっとる 貿易相手は8割以上が英国 米国は南北戦争の動乱で後退する 売込商(日本商人)と引取商(外国商人)が居留地で貿易を行う(居留地貿易) 引取商の活動は居留地内のみ 中国(清国)では居留地のことを租界と呼んでいた。 輸出品:生糸・茶・養蚕紙・海産物…