末期の豊臣政権の政務にあたった有力大名を指した用語。
五大老とは、豊臣秀吉が(1595年)甥の関白秀次切腹事件の前後に、幼少な後継者・豊臣秀頼を外様を含めた大大名が就く大老が補佐し合議制をとることにより、最大の仮想敵国的存在である徳川家康の台頭を防ぎ取り込もうとし成立したと考えられている。
将来台頭し、豊臣家と覇権を争う可能性のある徳川家康を大老として取り込んでしまうことにより、禍根を断とうとした秀吉の策であったが、秀吉存命中は秀吉の期待に沿う働きをしたが、死後は家康の度重なる盟約違反により有名無実化した。
なお、五大老はその数が常に固定化されていたわけではなく、上杉景勝は小早川隆景が死去するまでは、連署に署名している場合とそうでない場合があり地位が固定化されるのは隆景死後からである。また全ての人物が同格でなく特に徳川家康は終始、五大老内でも特段の地位を保持し続けている(内大臣・五大老筆頭)。この家康に対抗する人物として前期は毛利輝元と小早川隆景、後期は前田利家(大納言・五大老次席、他の大老は中納言)が充てられていた(また前田利家の死後は、嫡男の前田利長<中納言>がその地位を引き継いだが、既に家康専横が始まっており、次席<大坂城での秀頼の傅役(もりやく)>の地位は引き継がず)。
前田利家の存命だった(1599年)までは、家康の専横までは防げなかったものの、家康が豊臣家より上回る権威を持つことを防ぐことはできた。しかし、関ヶ原の戦いで宇喜多が改易され、前田、上杉、毛利が弱体化し、かつ秀頼に対する責任を追及しなかったことにより、家康が事実上の天下人となるに至って自然消滅*1した。
*1:関ヶ原の戦い前に、既に違約による、大老の一人上杉景勝討伐の豊臣秀頼によるの認可と天皇の治罰綸旨許可により実質的には、その時点で崩壊状態ではあったが(手続き上朝敵・叛乱者となったため)