幕末の仙台藩宿老。但木土佐とも。但木直行の子。
嘉永5年(1852)7月、安政5年(1858)の2度も奉行職(家老)に就任し
放漫財政の後始末をすべく、倹約令を出し、さらに文久2年(1862)10月には
10万石分限で藩運営をすると宣言。蘭学者・大槻盤渓の影響を受け
軍制の洋式化にも着手した。思想的には佐幕開国の保守主義者で
奥羽越列藩同盟の設立に尽力。
戊辰戦争では首席奉行として、軍事総督の坂英力らと徹底抗戦を唱えた。
しかし、各地で同盟軍が敗退するや首席奉行を辞任し、隠棲したが戦後に逮捕される。
東京で拘禁後、明治2年5月、麻布仙台邸で坂英力と共に斬刑に処せられた。
招魂碑が在所保福寺境内と、菩提寺愚鈍院墓地内に建てられている。