山形県出身、 陸軍中将、インパール作戦時の第三十一師団長。 インパール作戦中、牟田口司令官と補給問題で対立、宮崎支隊の転用拒否、6月1日独断退却と2度目の抗命をする。7月5日付で師団長を解任。方面軍への責任波及を恐れた上層部により、精神異常として処理され、11月24日処分保留のまま予備役編入となる。
1944年(昭和19)1月インパール作戦が正式に発令された。第十五軍傘下の三個師団はそれぞれ準備に入った。 アラカン山系の一番険しい北側のルートを進むことになっていた第31師団は、補給のための自動車道路の開設と物資の集積に懸命だった。自動車に頼れないところは牛を使って運ぶ予定だったので、5000頭の牛の訓練にも力を入れた。しかし、インパール作戦ではイラワジ河の支流であるチンドウィン河を渡河しなければならない。半数以上の牛はここで溺れ死んだという。 各師団は、三週間分の食糧・弾薬を携行して、いっきにインパールを攻略するという計画だった。 この物資の補給に関して計算上は無理だと意見を表明した人もい…
続いて誠一郎は、インパール作戦についての写真と解説を目で追い始めた。 1944年3月開始時点での日本軍の参加部隊指揮者は以下のようになる。 ビルマ方面軍司令官 川邊正三中将 | 第十五軍司令官 牟田口廉也中将 ーーーー第十五師団師団長 山内正文中将 第三十一師団師団長 佐藤幸徳中将 第三十三師団師団長 柳田元三中将 このうちインパール作戦のキーパースンは牟田口廉也である。1988年(明治21年)佐賀県生まれの牟田口廉也中将は、陸軍士官学校22期生で、大正6年に陸軍大学校を卒業後、順調に軍人として出世の道を歩んでいた。 そして昭和12年7月に起きた盧溝橋(ろこうきょう)事件の時には支那駐屯軍歩兵…
秀才って何だ ! お勉強って何なんだ ! 私の年齢は、今年で79歳になります。振り返れば、悔いが山積みの人生です。 ただ、空しさはありません。困難と格闘し続けた人生、気持ちの片隅に、それなりに少しの充実感も残っています。 大きな顔して自慢できたことではないけれど、私は小学校以来、お勉強の成績はいつも、うしろから数えた方が早い方でした。基本的に、常に疑問を持っていました。お勉強って、何故しなければならないのか ? それはまた、義務教育への疑問、「どうして必ず学校へ行かなければならないのか ? どうして宿題なんてしなければならないの ? 」 遊びたい盛り、山や野原には楽しいことがあふれていました。…