(一)意念運用有階段性 王老先生が意拳の名を取ったのは、後学の者にこの拳は「意」の拳中での作用に注意するよう提示するためであり、必然的に時と場所を問わず意念を離れることはできない、というのが一般の人の大成拳に対する理解である。実際はそうではなく、大成拳の習練過程において、始めから終わりまで意念を運用するわけではなく、意念の運用には段階性がある。例えば、基礎功の站樁の練習では、意念は用いない。目を閉じて站樁しても開眼で站樁しても、必ず静かにし、「凝神、定意」しなければ、功力を練り出すことはできない。特に王薌齋先生の言う「先天本能の活力(また「自然力」とも言う)」を練り出したいのであれば、なおさら…