1.山東半島と遼東半島に挟まれた海の名前。
2.高句麗滅亡後、高句麗移民と靺鞨人の間に作られた国(698〜926) 旧高句麗の朝鮮半島を除いた地域を支配していた。 926年 契丹(遼)に滅ぼされる。
日本の東北地方との間に交易が行われ、大和朝廷とも勃海使節が頻繁に送られていた。
さて、今回は曹整の紹介じゃな。彼は曹操の息子なんじゃが、従叔父の曹紹の後を継いだ人物だったんじゃ。それ以外に彼はちょっとした、数奇な運命をたどった人物でもあるんじゃよ。
前回の続き。前回はアップしたあとに気づいたことがあり、追記してある。公孫度は青州に拠点を持っており、曹操陣営の領域である北海郡、城陽郡からであれば袁紹の勢力圏を通らずに遼東半島に行けそうだ。それならば199年以降のどのタイミングに樂浪太守となっても問題はない。ただし、太守任命が公孫度対策と関係あるならば袁紹との開戦前夜の199年に任命するのが自然だろう。 さて、涼茂は遼東半島に渡ると「公孫度はこれを引き留め、樂浪郡へ行かせなかったが涼茂が公孫度に屈服することはなかった。」私の推測では、抑留されることは想定通りで、ただし公孫度の属官任命などは受けず、客分として、曹操陣営の使節として意見を言う立場…
※前回の続きです。この一連の記事は、二年ほど前に執筆して、そのままブログの下書きとして眠り続けていたものです。一部が、前回の記事でお知らせした論文の下敷きになりました。(「劉炫の学問とその書物環境」の公刊 - 達而録) 〔記事一覧〕 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(1) - 達而録 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(2) - 達而録 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(3) - 達而録 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(4) - 達而録 梅賾本『尚書』と『経典釈文』(5) - 達而録 ----------------------- 前回の続き。本題に入るには、もう少し整理が必要です。前回同様、劉起釪『尚書學史…