勅使河原蒼風(てしがはら・そうふう)1900(明治33)年12月17日生〜1979(昭和54)年9月5日没
華道・草月流の創始者。1927年草月流を創流。勅使河原霞、勅使河原宏の父。現在の家元勅使河原茜の祖父。
代々華道を家芸とした勅使河原家に誕生。蒼風は父・久次に7歳の頃より華道の手ほどきを受けた。
若くして父の代稽古をつとめ、「小先生」と呼ばれていたという。
軍人が人気の時代、将来の希望を尋ねられた小学生の蒼風は「お花の先生」と答えて同級生に笑われたという。
その後、父との確執の末26歳で家出。「草月流家元 勅使河原蒼風」の看板を掲げた。
しばらくの間、耐乏生活を余儀なくされるが、1928(昭和3)年、銀座千疋屋で第一回草月流花展を開いた際、NHK婦人部の記者の目にとまり転機を迎える。
NHKラジオのいけばな講座、天皇即位記念「御大典奉祝生け花」ラジオ出演や以後の草月流展によって一躍斯界の寵児となり、草月流の名は知れ渡ることになる。
戦争中は活動停止したが、戦後GHQの統治下、米軍将校夫人の間で生け花を習いたいという要望があり、生け花教室が開かれることになった。その時、家元達の中で東京からもっとも近い群馬県に疎開していた蒼風に講師の白羽の矢が立った。蒼風はマッカーサー夫人らに華道を教え、草月流は「進駐軍の奥さんたちに教える流派」として再び評判となった。
蒼風は華道において、枯れ木や鉄のオブジェを使用する等、自由で斬新な手法を多く用いた。1955(昭和30)年にパリで個展を開いた際の「花のピカソ」(タイム誌)という称賛はその結実である。
しかし、既存の華道の世界において重要な型を否定、自由な活花を提唱したため異端視されることもあった。
1960(昭和35)年フランスの芸術文化勲章、1961(昭和36)年レジオン・ドヌール勲章、1962(昭和37)年芸術選賞を受賞。1966(昭和41)年財団法人日本いけばな芸術協会の初代理事長もつとめた。
創作は華道に留まらず、彫刻、絵画、書にも亘る。
(著作)