貞永3(1232)年、後堀河天皇は譲位。第一皇子の秀仁親王が12歳で即位した(四条天皇)。 天福元(1233)年5月、佐原盛連が泰時により殺害された。酒乱で素行不良であったことが『明月記』に記されるが、殺害理由は不明である。 文暦元(1234)年、竹御所は頼経の子を死産のうえで自らもこの世を去る。これにより頼朝・政子夫妻の血統は絶えた。六波羅北方探題の北条重時がすぐに鎌倉に帰ったことからも、その衝撃が理解できる(細川重男『宝治合戦』)。同年8月6日、後堀河院が崩御した。 嘉禎元(1235)年、鎌倉殿頼経の父でもある九条道家は、後鳥羽院・順徳院父子の帰京を鎌倉幕府に打診したが、幕府はそれを認めな…