1531(享禄4)年に細川晴元は細川高国を敗死させ、細川京兆家の家督争い(両細川の乱)に勝利しました。 しかしその後、晴元がそれまで擁立していた堺公方・足利義維を切り捨て、12代将軍・足利義晴と和睦する方針を打ち出したことから、堺幕府内は和睦に反対する三好元長、畠山義堯と、元長の追い落としと画策する木沢長政、三好政長とで深刻な対立が発生。 1532(享禄5)年5月にはついに軍事衝突に至り、木沢長政は旧主・畠山義堯と三好元長、筒井順興に居城・飯盛山城を包囲され絶体絶命となります。 長政から救援要請を受けた細川晴元は、自分の意向に従わない三好元長と畠山義堯の討伐を決め、法華宗信者であった三好元長と…