ころから帰って来た時には、部屋の中には誰もいなかったのである)、何者か腰をかけていた。それは一個の紳士であった、いや、一そう的確に言えば、ある特殊なロシヤのゼントルマンで、もうあまり若くない、フランス人の、いわゆる”pui frisait la cinquantaine“([#割り注]五十歳に近い人物[#割り注終わり])である。かなり長くてまだ相当に濃い黒い髪や、楔がたに刈り込んだ顎鬚には、あまり大して白髪も見えなかった。彼は褐色の背広風のものを着込んでいた。それも上手な仕立屋の手でできたものらしいが、もうだいぶくたびれた代物で、流行がすたってから、かれこれ三年くらいになるので、社交界のれっき…
[#1字下げ]第十二篇 誤れる裁判[#「第十二篇 誤れる裁判」は大見出し] [#3字下げ]第一 運命の日[#「第一 運命の日」は中見出し] 筆者《わたし》の書いた事件の翌日午前十時、当町の地方裁判所が開廷され、ドミートリイ・カラマーゾフの公判が始まった。 前もってしっかり念をおしておく。法廷で起った出来事を、残らず諸君に物語ることは、とうてい不可能である。十分くわしく物語ることはおろか、適当の順序をおうて伝えることさえできない。もし何もかも洩れなく思い起して、それ相当の説明を加えたら、一冊の書物、――しかも非常に大部な書物ができあがりそうなほどであるから。だから、筆者が自分で興味をもった点と、…