墓主を明らかにするため、名前や業績を石などに記したもの。
中国では後漢末期の建安10年(205年)に、三国志の英雄として知られる曹操が埋葬簡略化のために墓碑の禁令を出したことからはじまったとされている。
高句麗の「別種」とされる小水貊で作られた弓。良い弓として、西晋時代の中国にも知られた。以後も高句麗を象徴する武器であったとみられ、最後の高句麗王である宝蔵王は、唐に投降する際に貊弓を献じている。 小水貊の弓 貊弓入獻、楛矢來王 参考文献 小水貊の弓 3世紀末に西晋の陳寿によって編纂された『三国志』東夷伝高句麗条には、 貊弓について以下のような記述がある。 又た小水貊有り。句麗、國を作るに、大水に依りて居る。西安平縣の北に小水有り、南流して海に入る。句麗の別種、小水に依りて國を作る。因りて之を名づけて小水貊と爲す。好弓を出だす。所謂る貊弓是れなり。 高句麗は「大水」(鴨緑江)に面して国を形成して…
古代朝鮮、集安高句麗碑にみられた河伯について。河伯は日本書紀の中にも登場する。これまで紹介してきた朝鮮の遺跡・碑文・墓誌などよる考古学的内容を背景としつつ、古代に東アジアで何が起きていたかを探る。次の流れで紹介していく。 ・集安高句麗碑・河伯(かはく)・朱蒙(しゅもう)・解慕漱(かいぼそ、へモス)・解慕漱のラテン語読み・日本書紀の河伯・仁徳天皇・十一年・仁徳天皇について・大兄の官名・難波の堀江 ■集安高句麗碑集安市麻線郷麻線河の西岸で出土した石碑。全部で218文字程度の碑文。 碑文には、・始祖は鄒牟王であるとする・広開土王の統治と領土を切り開いた・広開土王は河伯の孫であるとする・守墓条令を公布…
広津家墓所。谷中霊園。垣内に四代の墓石と墓誌石碑とが肩を寄せ合う。 祖父弘信は久留米藩の儒者の家柄。医術を学んで長﨑にて開業するも、併せて諸外国事情を学び、やがて上京。外交官として朝鮮との国交樹立の現場担当官だった。交渉はこじれて、結果として征韓論を誘発する結果にもなった。明治16年(1983)没。孫の和郎誕生時にはすでに他界していた。 父直人は、尾崎紅葉率いる硯友社の一員たる小説家広津柳浪。明治期屈指の小説名人の一人だ。外国語学校にてドイツ語を学び東大医学部予備門に入学するも、肺病を病んで中退。父の伝手で五代友厚家に見習いとして居候し、農商務省の役人にはなったものの文学好きの駄目官吏で、免職…
高句麗の王権を支えた一族に牟頭婁がいる。今回は牟頭婁塚の牟頭婁墓誌を紹介。その登場人物である牟頭婁(むとうる)、そして冉牟(ねんむ)について記す。日月の子との表現が古代史をとく手がかりと考える。次の流れで紹介していく。 ・牟頭婁塚墓誌(むとうるづかぼし)・牟頭婁墓誌の概要・牟頭婁墓誌の内容・牟頭婁(むとうる)・冉牟(ねんむ)・慕容氏・日月 ■牟頭婁塚墓誌(むとうるづかぼし) 牟頭婁塚は現在の中国吉林省、かつての高句麗の好太王碑のある集安平野にあり、十数基の小土墳のうちのひとつ。 塚の石室は主室と前室があるという。 ・主室:正方形で約 3m×3m・前室:長方形で約 3m×2m この前室の正面の上…
今回は好太王碑文の内容について、日本史との文脈の中で取り上げられることが少ない点を紹介。次の流れで紹介していく。 ・広開土王陵碑(好太王碑文)・鄒牟王の物語(原文)・鄒牟王の物語(訳)・好太王について・平安について・十七世孫について・古事記の十七世神(とおあまりななよのかみ)・古事記におけるアジスキタカヒコネ・スサノオの新羅遠征後の日本と朝鮮の関係をつなぐもの ■広開土王陵碑(好太王碑文) 所在は現在は中国・吉林省(きつりんしょう)集安市。建立は414年。 高句麗の第19代の王、好太王(広開土王、在位:391年 - 412年)の業績を讃えた石碑である。息子の長寿王(ちょうじゅおう、チャンスワン…
【なぜG7は日本以外白人欧米社会なの?】なぜ日本人は、こんなに白人好きなのか...戦争の過去や差別は?~GHQがかき消した東京大空襲、首都圏占領のための皆殺し、原爆に匹敵する残虐さ~ ■なぜ日本人は、こんなに白人好きなのか...戦争の過去や差別は気にならない? Newsweek 2021年04月23日 石野シャハラン https://www.newsweekjapan.jp/tokyoeye/2021/04/post-65.php ~~~ ・石野シャハラン1980年イラン・テヘラン生まれ。2002年に留学のため来日。2015年日本国籍取得。異文化コミュニケーションアドバイザー。シャハランコンサ…
呪われた世子と家族を殺した殺人犯にされた娘が、その陰謀と謎を紐解いていく時代劇ミステリー。NHKBSで視聴 パク・ヒョンシクのファンというわけではないが、彼の出るドラマは結構好き。なぜ呪われるのか?そして男装女子。王宮で働く人達がなにやら秘密めいた連絡を取り合っていて、それは一体何の組織なのか?という感じでドラマに引き込まれた。 二人が解明していく過程が楽しみでもあったが、内官と世子の二人が、時には親友のように堂々と意見を交わし、時には男女で・・・。もちろん世子と内官の基本的な立場は守っていて、二人のシーンは見ていて微笑ましかった。 世子役のパク。ヒョンシクは、貴公子的でピッタリだったし、コ内…
7世紀末〜10世紀にかけて栄えた渤海国の王都。忽汗城の異名でも呼ばれる。都城の遺跡は黒竜江省寧安市渤海鎮に残る。8世紀中頃に、唐の長安城をモデルとして建設されたと推定されている。 渤海の建国 渤海の北進と対唐紛争 上京竜泉府への遷都 都城の構造と宮殿群の特徴 皇城と外郭城 唐との通交ルートと渤海の特産品 日本との通交 渤海の滅亡 関連人物 参考文献 渤海の建国 渤海国は中国東北地方東部・沿海州地域・朝鮮半島北部を支配領域とした。同国に関する文献史料は周囲の国々に残されたものばかりであり、渤海国が栄えた当時の中国王朝である唐朝の正史である『旧唐書』(945年)・『新唐書』(1060年)が基本的な…
行基について。次の流れで紹介していく。 ・行基・菩提僊那(ぼだいせんな)・猪名部百世(いなべのももよ)・行基と続日本紀・773年条・大僧上舎利瓶記とは・大僧上舎利瓶記の内容 ■行基(ぎょうき)668年~749年にかけて活動した仏教僧。 行基は24歳で受戒、その後、飛鳥寺に入ったという。 そして、14年もの間、月の半分は山林で修業、残りの半分を経典で学習を行う生活を続けたという。 40代後半から民間への布教を始めた。行基が活動していた当時は仏教の民衆への直接の布教が禁止されていたという。しかし、行基はそれを破り、民衆、豪族などの身分を問わず広く仏教を説いた。 これに対して行基は朝廷から弾圧を受け…
009 ヒトは「似ているかどうか」を基本とする印象の世界に住んでいる。「似ているかどうか」は印象である以上、誰もが容易に「わける」ことができる。これとそれは「似ている」、これとあれは「似ていない」、という具合に。 この「わける」というのは、個人的なレベルでも集団のレベルでもヒトが勝手におこなっている行為なのである。「わける」必然はないという意味だ。とはいえ、こう考えると、必然、自然、偶然、当然、不自然というふうに「わける」必然もないのは当然だということになる。 「わける」という行為の基準には普遍も不変もなく、人それぞれで移り変わるものであるが、個人ではなく集団の場合には、「わける」は「きめる」…
古事記の成立以前に何があったか。今回は多蒋敷(おおのこもしき)と扶余豊璋(ふよほうしょう)を取り上げる。次の流れで紹介していく。 ・太安万侶と多氏・神八井耳命・伊都許利命(いつこりのみこと)・少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)・多品治(おおのほんじ)・金刺氏(かなさしし)・多蒋敷(おおのこもしき)・扶余豊璋(ふよほうしょう)・多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)・推察~扶余族は芙蓉(フヨウ)と一致か~ まずは、太安万侶と関連のある多氏、そして祖先とされる神八井耳命について振り返っていく。 ■太安万侶と多氏 元明天皇から711年、太安万侶は古事記の編纂を命じられた。そして稗田阿…
今日は友の命日。 墓参りに行ってきた。 日曜で仕事が休みなので娘さん家族も来ており、賑やかな命日になった。 お墓に着いた時には青空が広がり空気は蒸していた。 花を飾り、飲んでもらおうと持って行ったビールを墓誌の前に置き、彼との日々をしばし懐かしく思い出した。 「また来年、来ると思うよ。またな」
小野の八幡神社には岩本院という神宮寺があった。地図の左上 95は長屋 その御子孫が今は白鳥におられる。ご自宅の仏壇には立派な阿弥陀如来像が安置されている。座像で来迎印を結んでおられる。鎌倉の大仏様も阿弥陀如来だが、こちらは定印。うちの本堂の阿弥陀様も来迎印だが、空中住立のお姿。だから座った来迎印の阿弥陀様とはじめて出会った。この仏様は岩本院の御本尊だったのだろう。 その後、墓へ。墓誌を見ると次のように書いてあった。 史料二徴スルニ我ガ先祖 岩本院ハ元亀天正ノ昔ヨリ幕藩末二至ルマデ小野八幡宮ノ別 当職トシテ社ノ祭祀ヲ掌リ兼ネテ領主遠藤家以降歷代郡上藩主ノ祈祷書トナリー藩の尊崇ヲ寄セラレタリ 然ル…
洛陽の見学場所は6年前に一度行った千唐誌齋博物館。今回は打車で朝早く出発して、無事に到着したが、運転手さんは出来たら洛陽に帰る客を乗せて帰りたい模様で、入口の係の人と何やら話をしているが、こんな田舎に来る人はちゃんと帰りの手段を確保している人ばかり。見学中に運転手さんがやってきて「同じ値段でホテルまで行くから外で待っているよ。」とのこと。 見学ボランティアのお姉さんがいろいろ世話を焼いてくれる。鄭板橋の絵の石刻まで連れて行ってもらった。俺の名前が板橋だと言ったら大いにウケていた。 この場所は河南省軍閥の張氏が隠棲場所とした廬で、彼は当たりで発見される墓誌を集めては積み上げ一つの建物を建築した。…
一条真也です。『絶滅する「墓」』鵜飼秀徳著(NHK出版新書)を読みました。「日本の知られざる弔い」というサブタイトルがついています。著者は、僧侶、仏教ジャーナリスト。1974年、京都・嵯峨の正覚寺に生まれる。成城大学文芸学部卒業後、新聞記者・雑誌記者を経て独立。2021年に正覚寺住職に就任。主に「宗教と社会」をテーマに執筆、取材を続けています。大正大学招聘教授、東京農業大学、佛教大学非常勤講師。著書にブログ『寺院消滅』、ブログ『無葬社会』、ブログ『「霊魂」を探して』、ブログ『仏教抹殺』で紹介した本があります。 本書の帯 本書の帯には、香川県・佐柳島に残る両墓制の埋め墓の写真が使われ、「かつて見…