87.『門』平和な小説(1)――不滅の名文 大西美智子の『巨人と六十五年』(2017年光文社刊)に、漱石の作品で(今現在では)何が好きですかと、著者が高齢の夫に聞く箇所がある。『それから』ですか『門』ですかと聞く妻に対して、やまいの床に臥す大西巨人は、今はまあそこらへんにしておこうか、とようやく応える。 誇りある職業作家としては『猫』と(正直に)答えるわけにはいかない。漱石は(驚くべきことに)小説を書くつもりでなく『猫』を書いた。『明暗』も未完成であるからには、『神聖喜劇』を完結させた作家としては、挙げづらい。『坊っちゃん』も不朽の名作ではあるが、(『たけくらべ』同様)タブローというにはスケッ…