古来より「嫡」とは継嗣を指し嫡流、嫡系とは即ち本家筋のことである。 が、嫡子同様に単なる嫡出子などと混同されてしまっている。 いわゆる私生児であろうとも継嗣なら嫡流であり*1、例え嫡出子の長子といえども継嗣でなければ嫡流ではない*2。本宗家の滅亡や没落により傍系が嫡流となることもあった*3。
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*1:江戸幕府8代将軍・徳川吉宗など。
*2:廃嫡された藤原種継の男子・井手湯守など。
*3:氏長者が南家から北家へ変わった藤原氏など。
十河城址碑と解説板 讃岐の豪族で、後に三好一族となった十河氏の居城。 十河氏は、景行天皇の王子神櫛王の末裔という伝承を持つ、古くからの地生えの豪族である。 神櫛王の3世の孫である須賣保禮命が、讃岐国造として下向し、子孫は讃岐公を賜って讃岐国内に勢力を扶養した。嫡流は後に京へ戻って和気朝臣の姓を賜ったが、庶流はそのまま讃岐国内に残って勢力を維持し、やがて在地豪族化して武士団化して行く。その中に植田氏を中心とする植田党があり、その植田氏の庶流が十河氏である。 「西讃府志」によれば、貞和年間(1345-50)頃、植田景保には景辰、景之、吉保という子がおり、後の管領職にあたる将軍家執事だった細川清氏が…
朝、風邪を引いたのでランを休みました。半日寝ていようかと思いましたが、起きてみたら何とかなりそうなので、起きています。昼は外食にしましたが、改めて高いなァ〜と思いました。 626 朽木元綱(モトツナ;1549〜1632) 戦国から江戸時代の土豪、寄合旗本。父・晴綱が戦死したため、わずか2歳で家督を継承した。1553年より三好長慶に京都を追われた13代将軍・足利義輝を父に引き続き朽木谷に匿った。1570年の朝倉攻めにおいては織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長に仕えたが、1579年には代官を罷免された。信長の死後は豊臣秀吉に仕え1595年に高島郡9千石を安堵され、やがて2万石となった。…
津軽半島の西に十三湖という岩木川他数本の川が流れ込む汽水湖がある。昔、ここを拠点に北海道からオホーツク、沿海州にかけて交易で活躍した豪族「安東氏」がいたという。 だが、この「安東氏」、どこから現れたものか、また何故、忽然と消えたのか? 学生時代、国史専攻の友人が、研究テーマにすると言っていたので、覚えているが、この「安東氏」については、十三湊で繁栄した痕跡が途絶えたあとは、追いかけようもないと思って失念していた。 △ この間、TVをつけたら司馬遼太郎の「街道を行く」の新シリーズの中の「北のまほろば」(1994年1月取材旅行)をやっていた。 「街道を行く」は何年も前に全43巻を読んでいる。 この…
・本ページはプロモーションが含まれています。 先日、穏やかな晴れた日、今回はどうしても来たかった展示があったので、鎌倉まで 行ってきました。 今回も前回同様、コアというか・・・大型特別展ではありません。 私が鎌倉時代というか鎌倉北条氏が好きで来たといったと言っても過言ではなく。 それが、鎌倉歴史文化交流館で現在開催中の「北条氏150年 栄華の果てー鎌倉幕府滅亡 ー」です。 鎌倉市歴史文化交流館は鎌倉市に寄贈された海外の有名な建築家が設計、建築の個人 住宅を鎌倉で発掘・出土された遺物を中心に展示している博物館で、閑静な住宅地にあ るので、観光客の混雑から離れてゆっくり鎌倉の歴史を楽しめる穴場的な…
"嫡流真伝中国正派拳法の交差法マスタープログラム〜究極のカウンター技術で大ダメージを与える方法〜総合武道研究会玄武館会長 岡部武央 指導・監修 ※動画Vol,1(80分) Vol,2(82分) ※180日間のメールサポート ※技添削サポート 嫡流真伝中国正派拳法の交差法マスタープログラム〜究極のカウンター技術で大ダメージを与える方法〜総合武道研究会玄武館会長 岡部武央 指導・監修
キャラクターと人間とからっぽさと自我の投影 ~わかってくれるのは、からっぽだから? 具体性と人間 【ハイデガー『存在と時間』/サルトル『存在と無』】 不滅としてのキャラクター 【小池一夫『キャラクターはこう動かす』/長谷川町子『サザエさん』/臼井義人『クレヨンしんちゃん』】 人間からキャラクターへ? キティちゃんと口の表現と見る人の感情 〜からっぽであることの効果 からっぽとしての日本文化 【三島由紀夫『文化防衛論』】 前回のお話 https://www.waka-rukana.com/entry/2020.6.10 キャラクターと人間とからっぽさと自我の投影 ~わかってくれるのは、からっぽだ…
西園寺家の荘園であった田井荘の荘司である、近藤京帝が館を構えたことに始まるという。 ただ、築城時期は、白地城の説明板が建武2年(1335)、田尾城の説明板では久安6年(1150)となっており、また、一説に鎌倉時代前期とするものもあって、非常に開きがある。 史料上では、建武2年の後醍醐天皇綸旨に、西園寺家の荘園として田井荘が見え、この時点で西園寺家が荘園の権利を保持していたことははっきりしているのだが、白地城のことまではよく分からない。また、西園寺家の実質的な成立が、鎌倉時代初期の公経の時代であることを考えると、平安時代の久安6年築城の可能性は低いようにも思われる。いずれにしろ、近藤京帝なる武将…
松任谷由実「5cmの向こう岸」(アルバム「時のないホテル」収録) 呪術廻戦の御三家 五摂家 (Wikipediaより引用) ▶ 摂家(せっけ)とは:鎌倉時代中期に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った・近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家(序列順)の5つの一族のこと。 大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任でき、「藤氏長者」に就く資格を有した。 摂関家、五摂家、執柄家(「執柄」とは権力掌握のことで摂政・関白の別名)ともいう。 呪術廻戦の虎杖悠仁の家系図 虎杖の領域展開 不空羂索観音像 (週刊モーツァルトより引用) ヤマトの政権が出雲を支配下におさめようとしたとき、オオク…
田尾城南城館 南北朝時代初期の阿波奥部では、南朝方の小笠原義盛が大西城を本拠としていたが、その子か従兄弟といわれる頼清が、讃岐の脇屋義助と呼応して建武4年(1337)に築いたのが、田尾城の最初という。 この後、30年ほどは、小笠原氏が三好郡を中心として細川氏と対立していたため、田尾城も、阿波小笠原氏の嫡流が保持し続けたと思われる。 南北朝時代の終盤になると、嫡流の小笠原氏は没落し、その庶流とされる三好氏や一宮氏が細川氏に臣従して血脈を伝えた。戦国時代にこの周辺一帯を支配した大西氏も、そのような小笠原庶流のひとつという説があるが、白地城を築城した近藤氏の末裔ともいわれており、詳細はよく判っていな…
2024/10/10木曜日 5時に起床し長女の朝食とお弁当のおかず作り。 6時過ぎに畑へ。 一昨日収穫目前の里芋の側に緑色の液体が広範囲に撒かれているのが気になって掘ってみた。 雨上がりで土が余りに水分を含んでいてようわからんが、一つの芋は確認出来た。 一昨日植えた苗も何とか無事。 7時に帰宅後、シャワーと洗濯。 9時20分に買い物へ。 11時に帰宅後、食材を冷蔵庫に入れていると11時半に。 そのまま食事の用意。 12時に昨夜以来の食事。 夫には焼きそばを調理。 午後は読書。 今日は加来耕三著「生存の法則 細川一族の闘い」 何せ、細川藤孝公は将軍足利義晴時代のまだ「与一郎」と呼ばれていた頃から…
池田市街の中でも、北の川沿いは20mから30mほどの高地となっており、大西の丘と呼ばれている。その高さと背後の川を防御力の要として、大西城は存在していた。 大西城の築城は承久3年(1221)で、同年の承久の乱で功を挙げた小笠原長清が阿波守護となって入部し、この城を築いたという。長清は小笠原氏の祖となった人物で、甲斐武田氏の初代武田信義の弟である加賀美遠光を父とし、この父と共に源平合戦に参陣して功を上げ、父の信濃の地盤を受け継いだ人物である。 阿波守護職は、長清から嫡子長経に引き継がれたが、長経の次はその弟とも次男ともいわれる長房に伝えられ、長経の嫡子である長忠以降の嫡流は本領信濃を基盤とした。…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 日本人が朝鮮人を蔑視し差別するのには、正当な理由があった。 ・ ・ ・ 2024年9月9日 MicrosoftStartニュース 婦人公論.jp「『光る君へ』で竜星涼さん演じる藤原隆家はのちに日本を守った英雄に…あの道長が苦手とした<闘う貴族>隆家とは何者か【2024年上半期BEST】 関幸彦 2024年上半期(1月~6月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2024年5月15日) ****************…
※『械胡録(水滸伝+α)』執筆テスト:以下の『水滸伝』における招安投票大会の場面は、ChatGPT(4o)の思考及び言語出力の支援を受けて制作している。最終的には私の手作業による修正に及んでいるが、作業全体の半分またはそれ以上の支援を受けた状態での制作である。 ※執筆に当たって構成を色々と検討してみたが、『械胡録』はこの招安投票大会の場面を冒頭のプロローグ部分に移行する方法が望ましいかもしれない。英傑たちの有する事象・心理・関係の基礎的な要素を一斉に提示する事が出来るので、これが極めて効果的な導入になるように感じられる。その後は時間を遡り、第一回から原作に準拠した展開で物語を進めると良いと思わ…
『おんな太閤記』(1981)で、三英傑のうち、織田信長(藤岡弘)、豊臣秀吉(西田敏行)はドラマ初番から活躍するが、徳川家康(フランキー堺)は後半まで登場しなかった。小さい頃は冷たい感じの家康像の気がしたのだが、昨年、見直してみると、北政所(佐久間良子)を立てる器量の大きい武将として描かれていた。無理やり夫副田甚兵衛(せんだみつお)と別れさせられて政略結婚をさせられるあさひ(泉ピン子)に対しても『おんな太閤記』の家康は優しく接していたことが印象的であった。 家康を演じたフランキー堺(1929-1996)は朝日放送のクイズ番組『霊感ヤマカン第六感』(1974-1984)*1の司会者をやっているコメ…
藤原氏はその祖藤原鎌足が中大兄皇子と共に政変を成し遂げ権力を手に入れて以降、権力中枢にいてそれを握り続けました。 特に甚だしかったのは平安時代中期の摂関期でその時には朝廷の重臣の大部分を一族で占めました。 それ以降は権力からは離れたものの、それでも宮廷の権威を保持できるところではその中枢であり続けました。 その血を引くと称する一族は多数あり、中には自称に過ぎないものもあるとはいえ、日本の主要部を占めると言えるでしょう。 その藤原氏がどのように権力に近づき、それを我がものとしたか。 それを鎌足、不比等の初期から、良房、基経による摂関政治確立、そして道長による全盛期へと詳述していきます。 鎌足は中…