賢治が母親に気に入られようとしていた可能性のあることはすでに述べた。これを裏付けるものとして賢治の手紙,賢治研究家である堀尾青史の調査資料,文学作品などを紹介してみる。 大正7(1918)年6月20日前後の親友である保阪嘉内あての手紙(封書)に母のことが記載されている。これは,保阪の母が亡くなったという知らせを受けての手紙(引用文A)である。 引用文A 私の母は私を二十のときに持ちました。何から何までどこの母な人よりも私を育ててくれました。私の母は今年まで東京から向へ出たこともなく中風の祖母を三年も世話して呉れ又仝(とう)じ病気の祖父をも面倒して呉れました。そして居(い)て自分は肺を痛めて居る…