経営学者、大阪大学教授。1960年兵庫県生まれ。1983年大阪大学経済学部経営学科卒、88年同大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学。91年「近代的経営管理論の批判的研究 経営組織における正当性を中心として」で阪大経済学博士。1988年大阪大学経済学部助手、1991年岡山大学講師、92年助教授、94年阪大経済学部助教授、2003年経済学研究科教授。1990年『正当性の条件―近代的経営管理論を超えて』で組織学会高宮賞受賞。研究分野は経営組織・戦略、事業創造。
・300年 1.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅と倭国は友好関係を結んだという。 ※『日本書紀』には該当記事がないことから、この「倭国」はヤマト王権ではなく九州の王権であるとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。 ・311年? 〔参考〕辛未の年、垂仁天皇は崩御した。(『住吉大社神代記』) ※『住吉大社神代記』は、崇神天皇の崩御年を「戌寅」、垂仁天皇の崩御年を「辛未」と記す。「戌寅」が318年だとすると、垂仁天皇との崩御年が逆転してしまう。そのため、垂仁天皇の崩御年は311年、崇神天皇の崩御年はそれより前の258年だと推測される。『古事記』は垂仁天皇の崩御年を153歳、『日…
・240年(魏暦正始1) 2.1 魏は元号を元号を景初から正始に改めた。(陳寿『魏書』少帝本紀) ・240年(魏暦正始1) ?.? 帯方太守の弓遵の命により、建忠校尉の梯儁らは魏の詔書と印綬を伴って倭に至り、卑弥呼を親魏倭王に拝仮し、金、絹、錦、毛織物、刀、鏡、菜物を贈った。(陳寿『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」) ・240年? 「景初4年」という年号の刻まれた鏡が製作された。(広峯十五号墳出土鏡銘,辰馬考古資料館所蔵鏡銘) ※魏は240年に景初から正始に改元している。そのため景初4年という年号は存在しない。だが、帳天錫のように改元を知らずに「升平」の年号を使い続けた者もいる。そのため、魏の…
・210年頃 大和に突出部付円丘墓が営まれた(纒向石塚古墳)。 ※突出部は1つだけであり、同じく1つの突出部を持つ、立坂古墳や宮山古墳といった吉備の墳丘墓の情報が伝わっていたのかもしれない(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。 ※卑弥呼は陳寿の『魏書』-倭人伝に「その年は長大」と言及されていることから、彼女を補佐した「男弟」や彼女の言葉を伝えたという「男子」には先立たれたとも推測される。そのような人々の墓として纒向石塚古墳や勝山古墳などが築かれたとも考えられる(辰巳和弘「[シンポジウム]邪馬台国と纒向遺跡をめぐって」『邪馬台国と纒向遺跡』)。 ・220…