山本英二氏の慶安の触書は出されたかを読んだ。タイトルから推測するに、慶安の触書は出されなかったというのが筆者の主張であろうというのは読む前にわかってたが、では「慶安の触書」と呼ばれていたものは一体何だったのだろう?後世につくられた偽書なのだろうか?それにしては、中学校・高校でまことしやかに家光の事績として「慶安の触書」が上がっていたという記憶があるのだが。慶安の触書の触書は偽書ではないが、徳川幕府の発令したものでもない。そのもととなった文書は、甲州から信州に流布していた「百姓身持之事」三十六箇条が原型で、17世紀中ごろには成立していたと推測される。これが1697(元禄十)年に甲府徳川家の藩法と…