50年代のプロ野球選手。 右投右打、ポジションは投手。背番号は18→21→16番。
1933年4月21日生まれ。愛媛県出身。 松山東高校を中退し、1952年、西鉄ライオンズにテスト入団。
1953年、一軍に定着。
1958年より、川崎徳次より受け継いだ背番号21番に変更。エースナンバーとして確立する。 1950年代のライオンズを代表する投手として、黄金時代に大きく貢献した。
1963年、石本秀一に招聘され、広島カープに移籍も、病気のため開幕前に現役引退。
【2008年開幕時点】 厳密には'53年着の(専任) 投手コーチの元祖・谷口 {※1}がいるが、何といっても「60」を表舞台へと押し上げたのは三原。 入番した'54年はライオンズ監督就任4年目。この年二塁に仰木彬、 一塁に河野昭修が準定着し、 既成レギュラーの三塁・中西太、遊撃 豊田泰光と合わせた “黄金の内野 ”陣容 (ほぼ) 決定。 また (くしくものち 「60」を着ける) 石本秀一が若手投手を鍛え西村貞朗、 河村久文に大津守と揃い、ベテラン・大下弘の巧打も冴え、でついに初栄冠 (日本シリーズでは敗北・・・相手方監督はのち「60」 着の天知俊一) 〜翌年2位。 から'56年、 西鉄 「野武…