「木村君の兵学校時代の成績と言うものは120人中どんじりから数えて10番目ぐらいだったろう。若い時分は、思慮の浅さから大した男ではあるまいとたかをくくってつきあっていた傾きがあった。その真価というか、かれという人間の本当のえらさがしみじみとわかってきたのはずっとあとになってからである。」 これは文芸春秋(昭和46年11月号)に掲載された「奇蹟を実現したヒゲの提督」という記事のなかで連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介が、キスカ島撤退の指揮を執った兵学校同期の第一水雷戦隊司令官木村昌福少将について語っていたことだ。 華々しい出世を遂げた草鹿が、海軍大学どころか水雷屋でありながらノーマークで、船乗り一筋…