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摺上原の戦い

(社会)
すりあげはらのたたかい

摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)

1589年、米沢(当時)の伊達政宗と会津の蘆名義広との間で起こった合戦。

背景

伊達氏は、周辺の勢力を調略や合戦により取り込み
出羽南部(山形県置賜地方)から陸奥南部(宮城県南部)まで勢力を拡大した。
さらに、福島においては相馬氏や大内氏、畠山氏とも衝突し南下の構えを見せていた。
一方、会津の名族・蘆名氏は蘆名盛氏が死去した後、嫡男の盛興が跡を継いだが
1575年蘆名盛興が27歳の若さで死去、嗣子がいなかったため二階堂氏から盛隆を迎えたが
その求心力は急速に衰えた。
盛隆は家臣によって暗殺され、遺児・亀王丸も1歳で病死してしまう。
伊達氏はその後継争いに介入しようとするが、最終的に伊達氏と敵対関係にあった
常陸の佐竹氏から義広が跡を継ぎ、佐竹・蘆名連合が誕生した。
強大な後ろ盾を得た蘆名氏は、大軍で伊達領に侵攻(「郡山合戦」)
最上・大崎・相馬と緊張が深まっていた伊達側は、郡山方面に兵を割けなかった。
しかし、伊達側は地の利を生かした籠城戦と、蘆名側から大内定綱・片平親綱が寝返り
蘆名氏の攻勢をしのぐことができた。

経過

1589年、政宗は畠山(二本松)氏を破り、相馬氏にも優勢に戦いを進めていた。
そんな中、蘆名氏の一門であり重臣の猪苗代盛国が伊達側の調略に応じた。
政宗は猪苗代城を前線基地とし、片倉景綱・伊達成実を派遣
各方面に分散していた軍勢をまとめ、蘆名氏と決戦に臨むこととなった。
決戦場の摺上原(磐梯町・猪苗代町)は磐梯山と猪苗代湖に挟まれた平地で
合戦には持っこいの場所だった。
摺上原東側に陣取った伊達勢は2万3000、一方西側の蘆名勢は1万6000という(諸説あり)。
6月5日の午後2時頃、両軍は正面から衝突し、一進一退の互角で推移した。
そこで密かに摺上原の北側、磐梯山の麓に迂回していた伊達成実勢が
蘆名勢の側面を突き、蘆名勢は総崩れとなって会津方面に逃走。
その後の追撃戦も含め、蘆名勢は2000人以上を失い、伊達勢の勝利で終わった。

戦後

命からがら黒川城に戻った義広だったが、すでに家臣団は伊達への恭順を決めており
「すぐさま実家に戻られよ、さもなくば首を給わらん」と詰め寄られ
実家の佐竹氏に逃れていき、政宗による会津制圧は終了した。
だが豊臣秀吉の出した私戦禁止令(惣無事令)を無視した結果となり
秀吉によって会津領を没収された。
さらに秀吉は「奥州仕置」により政宗を米沢から岩出山(宮城県大崎市)に転封させ
大崎氏、岩城氏、葛西氏、石川氏、白河氏を小田原の陣に参陣しなかったという理由で改易とした。
また、没収した会津には秀吉の重臣・蒲生氏郷が入り、政宗の監視の役目を負った。


参考資料
「貞山公治家記録」
仙台市史編纂委員会「仙台市史」
中田正光「伊達政宗の戦闘部隊」

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