日本の鎌倉時代から南北朝時代の真言宗の僧。日野俊基の抜擢や楠木正成と後醍醐天皇を仲介した人物だと言われている。また、真言立川流の大成者でもある。
第四章 邪法 1. いっときは平和でございましたが、それからまた戦乱の世になりました。帝にお味方して北条殿を滅ぼした足利殿が帝に背き、さらに足利殿の兄と弟とが内輪もめを始め、わけのわからぬ混乱状態になってしまいました。とうとう帝は都を出て吉野山に行幸あそばされ、そこに仮の皇居を定められました。延元二年(1337年)のことでございます。 その年の夏の終り、つくつく法師の鳴くころのことでしたが、永福門院さまをお訪ねいたしました。 「浄念、ひさしぶりですね」 と女院さまはおっしゃって、しばらく沈黙されました、いえ、正確に申しますと、わたくしがお答えにつまって黙っていたからでございます。 「今日は、お…
3. そうこうしておりますうちに、帝は隠岐の島を抜け出されました。その噂が都に伝わったころのことでございますから、正慶二年(1333年)の三月の終りか四月の初めのころでございましょう、 人はみな不安におののいておりました。源平の合戦の後、蒙古襲来を除けば、小さな戦しかありませんでした。ところが、ここ数年、だんだんと戦の勢いが大きくなってまいりました。このままでいくと、また源平の戦のような天下大乱になるのではないかと、皆が心配していたのでございます。戦そのものも恐ろしいことでございますが、戦の合間に武士たちは乱暴狼藉を働きます。女たちは、町を出歩かぬのはもちろん、京を離れて田舎の親戚に疎開したも…
第三章 戦乱 1. 同じ年に、帝が鎌倉殿に対して軍を起こされ、京を離れて笠置山に立てこもられたのでございます。文観さまが硫黄島へ流されたのが七月で、帝が笠置山に行幸あそばされたのが翌八月のことでございます。帝が京を離れさせられると、鎌倉殿はただちに持明院統の量仁親王を新しい帝に立てましたので、帝は廃帝になられ、軍は賊軍となったのでございます。官軍、すなわち鎌倉殿のお味方衆は、いっせいに笠置の山に押しかけました。 実はこのとき、わたくしもすこし働きがあったのでございます。九月三日から合戦が始まりましたから、その前日の元徳三年九月二日ことでございます。戦を始める前に軍使を立てようということになりま…
<あなたの運命の大天使> ・大天使の宿す資質と人間の資質は共鳴します。よって、誰にでもお気に入りの大天使ができるはずです。他者を癒すことに興味があるのなら、ラファエル、生まれながらにして伝達能力に優れている人はガブリエルという具合です。誰にでも、一生を通じて長く関わり合っていく大天使がいます。私は、こうした大天使を“運命の大天使”と呼んでいます。 大天使の存在が気詰まりに感じられたり、何かを要求されているような気になったりすることがあるでしょう。これは、「弱い資質を強くしなさい」というメッセージなのです。例を挙げながら話を進めましょう。サマエルが放つエネルギーに違和感があるときは、より厳しく自…
4. それから三月ほど後の、元徳三年(1331年)五月の何日かでございます。六波羅の役人どもが、文観さまや、修法のお手伝いをなさっていた天台宗の円観上人、忠円僧正を召し捕りました。その上、鎌倉へ護送して、噂によれば、惨い拷問を加えたとかでございます。僧に拷問を加えるなどというようなことをすると、その武士どもの後生は考えるだに恐ろしいことでございますので、わたくしは、文観さまたちのためにも祈りましたが、鎌倉の武士たちのためにも祈りました。 容疑は、やはり怖れたように、呪詛の修法を行ったということでございました。文観さまは、真言宗の僧たちをも招いて、三角の護摩壇ではあるが調伏法ではないと説明なさっ…
第二部 修法 1. 「浄念は文観という僧を知っていますか?」 と永福門院さまに尋ねられて、わたくしは、 「はい、よく存じております、わたくしはむかし文観さまの従者をしておりました」 とお答えいたしました。浄住寺の客間は日当たりのよい場所に作ってはありましたが、その日は春がまだ浅くて冷えまして、鎧戸を半分ほど降ろしておりましたので、ほの暗くて、上座にお座りの女院さまのご様子は陰としてしか伺うことができませんでした。 「文観について、そなたも噂は聞いていますか?」 とおっしゃる女院さまのお声は、お齢のためかややかすれてはおりましたが、か細く美しい響きでございました。 「このところ、中宮さまのご懐妊…
3. 私は十八の年に海に出ました。日本の年号で申しますと永仁三年(1295年)でございますな。蒙古の襲来の後、海の上もすこしおだやかになって、堺の沖に来る唐船が船乗りを募集しておりましたので、それに乗って、はるか南の海に出かけました。やがて、シュリーヴィジャヤと呼ばれる国にまいりました。漢字では室利仏逝と書いておりましたかな。そこは栄えた王国で、仏法が盛んでございました。日本からは半年あまりかかりました。もちろん、直行ではなく、港々に寄りながらでございます。最終目的地がシュリーヴィジャヤのチャイヤーという港でしたが、そこで半年ほども風待ちをすることになりました。その間は、なにもすることがござい…
2015年7月~8月4日に書いた記事です。古くなっていますが、それなりに魅力はあるでしょう。この続きが「影の炎」で、このシリーズが終了後に掲載できると思います。 第一部 荼吉尼法 1. あれは元亨三年(1323年)の春のことでございました。桜が咲き始めておりました。太子市の日ですから如月の二十二日でしょう。文観さまのお供をして四天王寺の法会に出て、帰りがけに、薬種を売っている老人に声をかけられたのでございます。 「そこのお上人さま」 老人の声は、年に似合わぬよく通る声で、文観さまも振り返られました。後ろは内門を出た中庭で、さまざまの店が出ております。桜の木がまばらにではありますが植えられており…
ひたすらに世界史のトリビアを紹介していきます。 1 世界で初めて「ファック・ユー!」という言葉を使ったのはベーブ・ルース 2 鼻血で死んだ英雄いる。3 マスメディアで初めて二本指立てたのはロックフェラー 4 シュワルツェネッガーの伯父さんは大戦末期、Me163のパイロットとして事故死 5 遼の「二重統治体制」論は 元々津田左右吉の1916年の論文(しかも今も通説) 6 中国には食人文化があった。7 ルイ16世は真性だった 8 フィリップ4世は生涯下半身に衣服を身に着けたことがなかった 9 エカチェリーナ2世は アンハルト・ツェルプスト家出身のドイツ人だった 10 フランス国王は新婚初夜を貴族ら…