元禄4年8月。近頃、日光通所(名古屋別院)を橘町裏に建立するとのことで一向宗数1000人がやって来て地をならす。その広さは四方2町(1町は約100メートル)ほどで田地はその下に埋もれてしまう。まさにこれは国弊(奉献)である。百姓らは溝を掘っては石垣を築く。その他諸士の男女は水に漬かりながら土を運んでは築いていく。また矢田砂を数10俵引いてこさせる。堂は今年中には建つことはない。