江戸時代初期の武将。出羽山形の大名・最上義光の次男。 始め義親と名乗ったが、徳川家康の近習を務めていたことから 家親と改名し、従五位下駿河守に叙任された。 慶長10年(1605)侍従に任ぜられ、大坂の陣では3000の兵を率いて出陣するなど 将来を期待されたが、元和3年(1617)山形城内で急死した。 死亡説には諸説あるが、子の義俊が幼少であったため、家臣団の対立を招き 改易となった。