正徳2年12月20日。手代と足軽の間ぐらいの町奉行支配道奉行加茂川幸左衛門には子がいた。松平十蔵弟勝右衛門とは衆道(男色)の関係であった。しかし、元服などを断りもなく行ったからと幸左衛門に果し状 で白林寺の前に来いと言ってきたので、幸左衛門は白昼に出かけ、それに加担する者も多かった。広小路本町下る青調散売(漢方薬か?)が甲頭巾で広小路から西の方を見渡す姿は言いようもなかった。しかし、勝右衛門が終に現れなかったので幸左衛門は立ち退いた。勝右衛門はいまだ御目見することもなかったので、一家は乱心ということにして押し込めた。