近江国栗太郡志那村(後の常盤村、現草津市志那町)に生まれ、佐々木義清の裔で志那弥三郎範重と言い、幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え(近習とも祐筆とも)、一休禅師とも親しくよく連れ立って志那に来たと伝えられている。義尚が鈎の陣で没した(延徳元年、1489年)後世の無常を感じ出家。摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国(摂津国?)山崎に庵「対月庵」を結び棲んで、「山崎宗鑑」と呼ばれた。 大永3年(1523年)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528年)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びここで生涯を終えた。「一夜庵」の名は宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の泊り…