ところで、後鳥羽院が最初に見いだしたのは宮内卿の兄・源具親(※)であった。建仁元年(1201)7月に後鳥羽院は寂蓮と共に具親を和歌所寄人として召し、その兄に続いて宮内卿も召されたのであった。 その当時の具親について、和歌所の事務長の源家長は『家長日記』では次のように記している。 【この人は、右京権太夫入道師光の子である。仁和寺のほとりにかすかな様子で住んでいたが、召し出されてやがて兵衛佐(ひょうえのすけ)になされたのを、父の入道は涙も拭いきれぬまで喜ばれたのは、もっともなことだと思われた。 いえばお気の毒なことに、具親もこれほどまでに沈みはててしまわれるような血筋でもないのだ。それを父の師光の…