そんな大げさなことを考えているわけではないのだけれども。 「私の大江」(町屋良平著)を読みながら、結局自分にとっての「大江」というのは、町屋の作品と、大江作品と、全く似ていないように一見思うのだけれど、どこに似た空気を感じているのだろう、と、ぼんやり思っている。 突き詰めれば、祈りのようなもの(祈りそのものではない)になるし、町屋さんの著作のすべてに流れる「ややこしさ」(もちろん悪い意味では全くない)の根本には、人への、人と人との間への、そして自分への、最後には祈りみたいなもの(信んじている気持ち、みたいな言葉のほうがいいのかも、とも思うけれど)があるのじゃないかと。 または、その祈りのような…