稲生の戦い(いのうのたたかい)
1556年、斎藤道三が長良川の戦いで討ち死にすると、道三という後ろ楯をなくした信長に対し、那古屋城将林佐渡守・美作守兄弟、柴田勝家らが信長の弟・信行を擁立し信長を廃そうと画策したため、結果織田信長と弟信勝(信行)との家督争いに発展。両軍稲生村の外れで対陣、数では劣った信長軍が大勝。これを機に信長は尾張統一に向けて行動し始めることとなった。
序文・織田家骨肉の戦い 堀口尚次 浮野の戦いは、戦国時代、尾張国浮野〈愛知県一宮市千秋町浮野〉で起きた合戦。浮野合戦ともいう。 織田弾正忠家の織田信長は尾張の支配を固めつつあった。尾張下四郡(しもよんぐん)を支配する清洲織田氏〈織田大和守家〉の守護代・織田信友を萱津(かやづ)の戦いで破り自刃させ、さらに弟・信勝との内訌(ないこう)〈うちわもめ〉に勝利し、尾張国守護の斯波芳銀(しばよしかね)をも追放した。 しかし、尾張上四郡(かみよんぐん)を支配していた嫡流岩倉織田氏〈織田伊勢守家〉の守護代・織田信安はいまだ健在であった。信安は信長の父・信秀の妹を妻とし、若年の頃の信長とも私的に交流があった人物…
かくして愛の繭が浮かし、戦士が目覚める。 真実なりたい自分を瞳の奥に写し、猫屋敷まゆの覚醒を描くわんぷり第19話である。 大変良かった。 広い視野と成熟した人格を最初から持ち、な~んも知らないこむぎを導く立場にいたいろはちゃんに比べて、出来ないこと怖いことが沢山あって、だからユキに守られ救われてきたまゆちゃん。 そんな彼女が成し遂げた成長の一つ一つを見せてもらったからこそ、今回真実自分が何を願うのか見定め、愛を紡ぎ人を繋ぐ強さへたどり着いた決断は、大変眩しく思えた。 バトルで直接無力化し、『猫屋敷まゆがやらねば誰がやる!』という状況を作るのが難しいわんぷりにおいて、ちょっと滑稽な可愛さがあるこ…
ランキング参加中日本の歴史何を目的に太田牛一は弘治2年(1556年)と弘治4年(1558年)の記事の間に桶狭間の戦いを天文21年(1552年)のこととして入れたのでしょうか? その答えとして最近「信長の軍勢を少なく見せたかったから」との説を目にします。 つまり「永禄3年(1560年)は信長が尾張統一を果たした後の為、今川方と拮抗できるだけの軍勢を動員できた筈。牛一は織田方が今川方より遥かに少ない軍勢しか動員できなかったことにしたかったので、永禄3年を天文21年と虚偽記載した。」と言うことです。 確かに「桶狭間の戦い」の少し前の記事に「上総介信長は尾張半国に命令を出せる立場であったが河内の一郡は…
名古屋市中村区大秋町鎮座 八幡社。地下鉄東山線本陣駅3番出口から南に徒歩5分程、アクセスが容易なこの神社から2024年の徘徊を始める事にしました。 大秋 八幡社社頭全景。社殿は南を向いて建てられ、鳥居左に手水舎、石の明神鳥居、社号標を構えている。 鳥居正面。道路沿いに提灯櫓があり、その先に鳥居と蕃塀がある。境内に聳える大きな楠が大秋 八幡社の象徴かもしれない。 社頭の右端に大秋城址の碑が建てられています。碑文は以下。「尾張徇行記記載曰大秋村之條 織田真記曰 其後謀令所属荒子城絶滅熱田与清須之路 米野大秋二城絶清州群那古野之路而略奪公充厨田篠木三郷 今按古城志不載大秋城墟 云々」自分なりの解釈は…
朝、善福寺川沿いを走ってきました。もう少し寒くなるかとウィンドヤッケを着ていきましたが、途中で脱ぎました。 「日本史1200人」367 織田信行(?〜1557) 織田信長の弟。父の信秀の生前から尾張国内に一定の統治権を有していた。信秀の葬儀において、兄の信長は仏前で抹香を投げつける不行跡を示したのに対し、弟の信行は「折目高なる肩衣・袴めし候て」礼儀に則った振舞いをしたといわれている。信秀の死後は末森城主となって信長と尾張の支配権を巡って争い、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった。一時は信長に代わって当主を名乗ったが、稲生の戦いで敗北し勢威を失った。その後、信長が仮病を装うと、清洲城へ見舞…