織田信長の孫。織田信忠の長男。幼名・三法師。岐阜中納言。 本能寺の変では父とともに京にあったが、前田玄以に護られて脱出に成功。変後の清須会議で羽柴秀吉に擁立されて織田家家督となる。 1592年、岐阜城主になる。 関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、東軍に城を攻め落とされて降伏。福島正則の取り成しで助命され、高野山へ蟄居。同地で没した。
2024/8/31土曜日 5時に起床。 朝から雷雨。 畑はお休み。 雨は6時過ぎに止むようなので洗濯はやることに。 昨日もゲリラ豪雨のように雨が激しかったのでベランダの水遣りはお休み。 8時から読書。 昨日から時空旅人編集部編「ルイス・フロイスが見た異聞・織田信長」を読んでいる。 まずは、ルイス・フロイスの紹介。 ポルトガル王国王室秘書庁書紀見習の少年フロイスにとってインドで1ヶ月に一万人に洗礼を授けるフランシスコ・ザビエルは憧れの的だった。 1548年3月、フロイスはポルトガル艦隊の一員としてインドのゴアを目指す。 1563年、フロイスは肥前(長崎)横瀬浦にに到着。ザビエルは既に1552年に…
松尾神社でゆっくりと過ごした後 伊奈波神社の参道をのぼり駐車場へ その道中にある善光寺へと足を向けます 岐阜善光寺 戦国時代 岐阜城主となった織田信長公が 武田信玄によって信州の善光寺から 甲府へ移されていた善光寺の善光寺如来を 岐阜へ移し、岐阜善光寺が創建されました 猫に引かれて善光寺 (光文社文庫 に 14-19) 作者:新津きよみ 光文社 Amazon ※岐阜善光寺ではない 本能寺の変で信長が討たれると本尊は岐阜から移されますが 信長の孫 織田秀信によって 善光寺如来の分身が岐阜善光寺の本尊に 現在も大切にまつられているとか… 心流紀行 伊奈波神社の存在もあり すこし小ぢんまりとした印象…
昨日は市の歴史講演会。「慶長5年八月の美濃」というテーマ、慶長八年は関ケ原の戦いがあった年、9月15日に雌雄が決した。 副題に「関ケ原の戦い前哨戦」関ケ原の戦いの前の8月、23日、東軍、西軍が美濃で相まみえ岐阜城が陥落した。更にその前日の攻防、8月22日に木曽川を東軍が渡河、打ち破って岐阜城に攻め入った。 その古戦場が当市各務原市、羽島市にあり「米野・新加納の戦い」「竹ヶ鼻城の戦い」 それぞれの戦いについて岐阜市、羽島市、各務原市、岐阜県の博物館、民族資料室、文化財保護の担当者、郷土史家が講演。 講演後にこの4者によるシンポジウム、午後1時半から始まって4時半までの長丁場。非常に興味深く面白く…
語録内の用語を載せています。 自力で攻略したい方、ネタバレをなるべく踏みたくない方は閲覧をお控えください。 *鬼語録 ⚪︎あ ・天霧 ・いづな足 ・一の太刀 ・茨木童子 ・温羅 ・鬼 ・鬼頭 ・鬼の掟 ・鬼本来の姿 ・朧一族 ・朧八千代 ⚪︎か ・風間 ・北の金剛仁王 ・飢渇丸 ・吉備津彦命 ・銀狼・その一 ・銀狼・その二 ・蜘蛛糸 ・黒糸 ・黒髪 ・顕明連 ・琴浦爺 ・金剛力 ⚪︎さ ・先見の力 ・鈴鹿御前 ・涼森家 ・汐見爺 ・式神 ・十二鬼衆 ・十鬼衆 ・酒呑童子 ・修羅 ・不知火 ・千鬼丸 ・先祖がえりの力 ⚪︎た ・大通連・小通連 ・月島爺 ・通り名 ・鳥居 ⚪︎な ・南雲秀 ・名乗…
7泊8日の京都・滋賀・岐阜・名古屋旅行、7日目。 日本遺産「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜 「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜|日本遺産ポータルサイト 8時26分にJR岐阜駅前(北口)発の岐阜バスで約10分、8時37分に伊奈波通りに到着。 岐阜バスは「ayuca」という電子マネーしか使用できなったが、2024年3月2日よりmanacaなど10種類の交通系ICカードが使えるようになった。 ayucaは2026年中に廃止される予定。 ayuca|岐阜バスグループ https://www.gifubus.co.jp/info/rosenbus/post165 岐阜善光寺 甲…
2024年08月07日 高知城 山内一豊が土佐一国24万2千石を与えられて浦戸城に入った。一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた。 想像していたよりもこじんまりした印象を受けた。外様ゆえに遠慮したのかもしれない。 天守と言い本丸御殿っと言い現存しているので一度は見ておくお城と云えよう。 高知城図 追手門 詰門 雨の多いところゆえに石垣…
⇒赤堀皇学館大学院思想の卒業論文⇒平成イタリア人口理論と産婦人科キリスト不倫思想から学ぶ田村寺のドイツ哲学思想と靖国軍国主義文化の寺院の仏教愛理論について⇒第1論文⇒皇學館赤堀大学院の名古屋徳川宗春理論の大学院研究論文第1論文①北勢四十八家と赤堀部落民思想の三重県地域家系研究論 ⇒田村寺について述べる。⇒三重県四日市市西富田(大矢知地区富洲原地域)にある近代仏教寺院が田村寺である。南無宝地蔵菩薩を信仰する嘉永3年(1850年)設立の寺院が前身仏教組織である。僧侶田村家が管理する真言宗醍醐派の仏教寺院である。⇒田村寺名古屋徳川宗春理論の僧侶がタバコを吸う行為仏教徒である事について述べる。⇒成人病…
今川氏真の妻、織田秀信、武田義信。こうゆう大河ドラマで主人公にならない人たちがいい。 杉並の今川って氏真の墓があるから今川だったのね。 星ヶ岡城日枝神社は城跡だったらしい。http://www.5suke.com/diamondhead/?p=4391
真田太平記(六)家康東下(新潮文庫) 作者:池波正太郎 新潮社 Amazon 天下を治むる人びとは、その日暮らしであってはならぬ。 家康暗殺ばれる。それを逆手に諸大名を攻撃する家康。 鈴木右近、すっかり結婚願望がなくなる。 自分は結婚したくないのに、家来の赤沼瀬兵衛には再婚を進める右近。 慶長5年(1600年)。 前田利長の母芳春院、人質として江戸へ。 秀吉死後、いったん国許に帰ったら?と家康に言われて帰った上杉景勝が音信不通。 不安になって家康手紙送るけど景勝返事なし。 真田幸村34歳。 壺谷又五郎、向井佐平次の本当の。。 直江状、家康59歳、こんな無礼な手紙見たことない。 福島正則40歳、…
⇒平成イタリア人口理論と産婦人科キリスト不倫思想から学ぶ仏教理論について第1論文①北勢四十八家と赤堀部落民思想の三重県地域家系研究論⇒キリスト教の人類の聖書犯罪の学説⇒①仏教徒の死ぬ苦しみの命仏教の学説⇒②男女平等表現の裸婦像イブの女性キリスト学説⇒③資本主義お金思考の男性器暴力アダム労働者の学説 ⇒日本史三大キリスト思想革命について述べる。⇒①安土天下キリスト思想革命⇒②明治維新近代化キリスト文明開化革命⇒③平成イタリア女性芸術裸婦像イブの平成キリスト革命成立仏教変化⇒①室町時代仏教商業社会⇒②名古屋徳川宗春理論と被差別部落死刑組織の民営化仏教警察組織思想⇒③大正時代ドイツ式工業都市国家の都…
執着を手放す方法は煩悩執着こだわらない思考でどうでも良いと思う。創価学会員で立憲民主党支持者やキリスト教徒及び天理教信者で公明党支持者で固定概念を消す思考になる呪いあり。⇒平成イタリア人口理論と産婦人科キリスト不倫思想から学ぶ仏教理論について第1論文①北勢四十八家と赤堀部落民思想の三重県地域家系研究論⇒富田六郷思考とドイツ哲学思考の田村寺の寺院仏教思想の研究⇒仏教論文⇒老人仏教愛で生きる老人仏教思想である。老人の老いる心で生きるのが仏教思想である。⇒仏教心理学の思想⇒色男女の現実世界の男女の事実仏教⇒感情女性器を見る心⇒動物性欲の煩悩怒りの心⇒思う心の思想仏教⇒思考の心⇒人生の仏教行為⇒認識の…
土曜日・日曜日と、日本史の本を読んでいました。流れと細部が分かる本は、なかなか見つかりません。今日の朝は、いつものように善福寺川沿いを走ってきました。 「日本史1200人」375 織田秀信(1580〜1605) 織田信忠の嫡男、信長の嫡孫、幼名は三法師、キリシタン大名。 本能寺の変の後、清洲会議において羽柴秀吉の周旋により、わずか3歳で織田家の家督を相続し20万石を得た。織田信雄の後見を受けたが、秀吉と信雄が対立すると、三法師は秀吉の下に移され、秀吉と信雄が講和をすると、信雄が織田家の家督を正式に相続した。後に秀吉に従属した。関ヶ原の戦いでは、石田三成から「戦勝のあかつきには美濃・尾張の2ヶ国…
関ヶ原「玉城」とは?このはなしの、その後の続編としてとらえてください。 m-dojo.hatenadiary.com専門の学者、有名youtuber、実際に城跡を見て縄張り図を描いてるひとなどなど…始まった。あとついでに描いた玉城(岐阜県関ヶ原町)の縄張図を貼っておこう#歴史探偵 pic.twitter.com/D1p2zbGgS3— 美兎子 (@bitoko46) November 15, 2023 千田、関ヶ原を見下ろす玉城の陣小屋訪問。足軽のみなさま、決戦前のお忙しいときにも関わらず、その節は仲間に入れてくださって、ありがとうございました!それにしてもNHKの最先端VR技術はすごいです。…
少しずつ、歴史に歪みが生まれつつあった。 まずは、3年間続いた明智光秀討伐戦争。これを制し、織田家中最大勢力を握ったのが羽柴秀吉という点は史実同様であったが、その後彼が柴田や徳川を下し織田家を乗っ取る・・・という図は、この世界では描かれることはなかった。 それどころか、柴田は健在で、そして織田家中に第三勢力が生まれてしまう。それは、史実では羽柴や徳川に利用され打ち捨てられる運命にあったはずの信長次男・織田信雄。 明智討伐戦争の間に紀伊半島南部に支配圏を広げ、信孝との戦いを制し伊勢全土も手中に収める。 信雄の勢力拡大はさらに続く。大和を支配する筒井順慶を打ち倒し、これを制圧。さらに柴田勝家亡き後…
どうする家康、42話、世帯平均視聴率10・0%でした。いよいよ家康と三成の対決が迫ってきました。では、あらすじを見て行きます。 (三成挙兵)慶長5年(1600)7月24日隠居していた石田三成が挙兵しました。三成には大谷吉継、小西行長、宇喜多秀家、毛利輝元らがついいる模様。さらに三成は手をまわし、家康を断罪する書状を諸国に送っています。このままでは有力大名の多くが、三成側につく可能性も出てきました。 こうした三成の動きに徳川勢は意気消沈します。 家康自身も「徳川家康、天下を治むる能わずと多くの者がそう申しておる。民の声、天の声かもしれぬな」と弱気です。 大阪城の阿茶や伏見の鳥居元忠も人質にとられ…