348.『野分』主人公は誰か(5)――兄と弟 道也の家は市ヶ谷薬王寺前であった。薬王寺前というと、後の読者が知るように、『道草』の健三の兄が住む場所である。漱石は『道草』を書くときに『野分』の道也夫婦のことを一瞬でも憶い出したりしなかったであろうから、薬王寺前は漱石の中では兄弟につながるイメジがあったのだろう。『野分』では兄は道也の唯一の係累として描かれる。「で御兄(おあにい)さんに、御目に懸って色々今迄の御無沙汰の御詫びやら、何やらして、それから一部始終の御話をしたんです」「それから」「すると御兄さんが、そりゃ御前には大変気の毒だって大変私に同情して下さって……」「御前に同情した。ふうん。―…