・204年(漢暦建安9) 公孫康は父,度の後を継いで遼東太守となった。(陳寿『魏書』公孫度伝) ・204年(漢暦建安9)以降 遼東太守,公孫康は屯有県に帯方郡を設置した。その後、倭と韓は帯方郡に属した。(陳寿『魏書』韓伝) ※帯方郡の設置は、康が遼東太守になった直後のことであると考えられる。魏と呉に挟まれた状況であった康としては倭と韓は味方に付けたい勢力であり、接近を試みたと推測される。倭側としても公孫氏は倭国が乱れた状況を終息させて外交窓口を整えるためにも利点があったと考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。 ・?年 倭の王が男性であった約70~80年の間は争いが続いていたため、そこで、…