平安時代中期の公卿。諡は恒徳公。後一条太政大臣・法住寺殿と号する。 藤原師輔の九男。母は醍醐天皇皇女の雅子内親王。同母兄には多武峰少将藤原高光、同母弟には天台座主尋禅がいる。 侍従から左中弁・蔵人頭を経て天徳元(970)年に参議。その後も権中納言・中納言・大納言と累進して寛和二(986)年に右大臣になる。正暦二(991)年に太政大臣に任じられたが、翌年薨去。正一位を追贈され、封相模国。 邸宅の一条院は姪の藤原詮子に伝領。長女の忯子は花山天皇の女御として寵愛を受けた。
その他娘五名