平安時代中期の公卿。諡は恒徳公。後一条太政大臣・法住寺殿と号する。 藤原師輔の九男。母は醍醐天皇皇女の雅子内親王。同母兄には多武峰少将藤原高光、同母弟には天台座主尋禅がいる。 侍従から左中弁・蔵人頭を経て天徳元(970)年に参議。その後も権中納言・中納言・大納言と累進して寛和二(986)年に右大臣になる。正暦二(991)年に太政大臣に任じられたが、翌年薨去。正一位を追贈され、封相模国。 邸宅の一条院は姪の藤原詮子に伝領。長女の忯子は花山天皇の女御として寵愛を受けた。
その他娘五名
こんにちは、あとりです❤️ 京都、『法住寺』に行ってきました。(22年4月16日) 『法住寺』は京阪・七条駅から徒歩約10分です。 「養源院」に隣接していて、道路を挟んだ向かいが「三十三間堂」です。 そのほか徒歩圏内に「豊国神社」、「智積院」 、「京都国立博物館」などがあります。 【正門】 『法住寺』は、永祚(えいそ)元年(989年)、藤原為光が夫人と息女の菩提を弔うために創設しました。 その後院政期には、後白河法皇の御所「法住寺殿」となりました。 後白河法皇崩御後は、御陵を守る寺として存続し、明治時代に御陵と寺が分離されました。 八重桜が咲いていました。 (時期外れで、すみません🙏💦) 【十…
藤原道長(ふじわらのみちなが)は、甥・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)に、ずいぶんと気を遣っていたようです。 ――先年の左遷は私が決めたことではなく、帝がお決めになったことだ。 と、隆家本人を前に、直接の釈明をしていたらしいことは、きのうの『道草日記』で述べました。 それだけではありません。 寛弘元年(1004年)のことであるそうですから―― 隆家 25 歳の頃です。 叔父・道長が自邸で酒宴を催しました。 隆家は、左遷をされてからというもの―― そうした遊興の場には顔を出さないようにしていたらしく―― そのときも参加はしていなかったのですが―― それをみて―― 道長が、 ――このような酒席に権中…
< 和歌をいかに巧みに操れるかが身分的実権を得るコツ モテるコツ > 「一億総株主化」とかおっしゃられてもねえ、どういう生活ベースからそういう発想が出てくるんでしょうか。昔からそうなんですけど、エライ人たちって、生活感覚、一般からかなり浮いてますよね。 持てる者と持たざる者って言ってしまえばそれまでのことかもしれませんが、最近の日本、お役人さんたちの乱れっぷりっていうのも、なかなかな感じになっていますしね。日本の何かが、どこかが、壊れてしまっているのかもです。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); コロナ禍での飲食店利用自粛期間に…
東山蓮華王院、三十三間堂の南大門道を挟んだ東側に法住寺と養源院がある。車も通る二階のない平構えの南大門の片側に立つ築地塀は太閤塀と呼ばれている。これは道を北に上(あが)って七条通を越えた京都国立博物館の先にある方広寺の塀の名残りで、豊臣秀吉は奈良の東大寺に対抗する大仏殿のため辺り一帯を容赦なくこの土塀で囲んだのである。法住寺は永延二年(988)に右大臣藤原為光が己(おの)れの娘の菩提寺に建て、その寺が長元五年(1032)に焼き失せた後、永暦二年(1161)後白河上皇が御殿、法住寺殿を造り、上皇の勅願に応え長寛二年(1164)平清盛が千躰観音堂、三十三間堂を建てるのである。通りからは見えないが番…