1635年、小笠原玄也・みや一家は座敷牢での50日間、殉教に向かい静かに身の回り、遺品の整理をし、お世話になった人々への手紙を書いた。 玄也9通、みや4通、子のまり1通、くり1通(全15通)それを、 みやの従兄弟の家老・加賀山主馬可政(かがやま しゅめよしまさ)に託した。 でも加賀山可政主馬 は、この遺書を、宛名の人々に渡さず、封をしたまま4年間保存、その後熊本城主細川忠利に渡した。 細川忠利もこの遺書を、見ずに保管した。誰もがその中身を読む事を恐れたのだろうか。または玄也一家の心情にまで思いを馳せる心の余裕はなかった、禁教の時代だった。そこに触れたくはなかったのかもしれない。とにかく遺書は誰…