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間崎哲馬

(一般)
まさきてつま

間崎哲馬(まさきてつま、天保5年(1834年) - 文久3年6月8日(1863年7月23日))は幕末の土佐藩士。哲馬は通称で、名を則弘という。号は滄浪(そうろう)。

江戸で安積艮斎の私塾に学び、清河八郎などとも親交があった。

高知へ戻ってからは、土佐藩が設営した田野学館などで教鞭をとる。その後、教え子の弟から借金を返済しないことで訴訟を起こされ、役職を追われる。高知城下の江の口村に私塾を構える。教え子には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいる。

その後土佐勤王党に参加。中核人物として暗躍し、武市瑞山から最も重用された存在の一人で、勤王運動を行う藩政改革を計画したが、それが佐幕派や山内容堂に疎まれ、切腹させられた。青蓮院宮尊融親王から令旨を奉拝して土佐藩の藩政改革を効果的に行なおうとしたが、土佐の志士たちの窮状に理解を示すはずのない佐幕派の青蓮院宮は令旨を発せず、逆に不遜であるという罪を着せられた。平井収二郎、弘瀬健太と共に切腹し、土佐勤王党の獄の犠牲者第1号となる。享年30。

辞世の句:守る人の有るか無きかは白露のおき別れにし撫子の花。

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