1868年8月23日から始まった会津鶴ヶ城攻防戦。日光口、白河口など各地に散っていた会津藩兵で間に合って入城できたものは千数百人にすぎませんでした。藩士の正規兵で3500人、庶民の強制動員も含めて9400人いたとされる会津軍ですが、ほとんどの兵力は軍事用語でいうところの遊兵と化しました。 新政府軍の包囲が狭まる中、家老佐川官兵衛率いる決死隊1000人が沓掛峠で抵抗しますが、新政府軍の勢いを止めることはできませんでした。会津藩では、藩士とその家族全員が籠城すれば兵糧が足らなくなるからとあえて城下に残ったものも多かったと言われます。 藩士中野平内の長女中野竹子(21歳)に率いられた娘子軍(じょうし…