平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人。
大治五(1130)年頃生、承元三(1209)年頃没。
亮公(すけのきみ)や亮阿闍梨(すけのあざり)とも。
実父母は不明。六条藤家の藤原顕輔の養子。
建久二(1181)年頃までには阿闍梨になり、晩年には法橋に叙せられた。
少年時には比叡山で修学したが離山、後に仁和寺に入り、『袖中抄』などの多くの歌学書を著し、仁和寺宮守覚法親王に献呈した。
藤原顕輔とその子藤原清輔が没した後には、六条藤家の中心的存在として歌壇で活躍。歌合出詠は二十数度に及び、とくに『六百番陳状』では「六百番歌合」の判者藤原俊成への反駁を示した。また、「千五百番歌合」などの判者も務めた。
実作の上では『万葉集』を尊重し、風情を重視する立場をとり、藤原定家らと対立したが、むしろ六条藤家の歌学大成者としての功績が大きい。和歌は『千載和歌集』や『玉葉和歌集』に入集。