宝永6年2月9日。この日から文左衛門は蔵の基礎を築く。日用が3人、召仕が2人。千秋一学弟の間宮八重ノ丞が若宮の神主となる。八重ノ丞は幼少であったので、後見は伯父野田伊織に内密に頼むが出て来なかった。伊織は今は隠居し、好閑と名乗っていた。一学の後見を伊織とした時、一学の母と諍いがあり、母は逐電した。話の筋は通っているが、母を立ち去らせたのでは後々子どもがどう思うのかと、奉行から好閑は大宮司家を立ち去るように申し渡された。今は野並村に蟄居していたので、この度後見のことを受けなかったのはもっともなことであった。同21日に若宮へ移る。