正徳5年5月27日。京知恩院貫主、前の大僧正応誉が再三の願いにより、この日諸司代水野和泉守から上意を伝え、辞表の通り隠居を認めるとのこと。その日、法然の影前で別れの念仏を行い、布の墨染と替え、本堂から直ちに歩いて六条坊門の如来堂へ向かう。如来堂は新善光寺と号し、御朱印地で知恩院の末寺であった。京知恩院の後住は鎌倉光明寺岩了和尚となる。尾州の人で南寺町光明寺から出た僧であった。