印象派はいかに世界を征服したか

印象派はこうして世界を征服した

印象派はこうして世界を征服した

画商

印象主義を躍進させた最後の要素は、まさにこのとき、絵画の売り方が変わったということだった。(略)
ポール・デュラン=リュエルの存在は、まぎれもなく未来の美術市場の発展の基礎となるものであり、彼のような〈実業家〉としての画商の出現は決定的な意味をもっていた。芸術家を価値ある商品として積極的にブランド化し、彼らに手当てを払う。商業ギャラリーでの展覧会を積み重ね、注意深く評価を行ないながら、各々の価格を設定することによって芸術家を管理する

鉄道

鉄道は近代生活の象徴であり、したがって〈現代〉を描き出そうと奮闘していた画家たちにとって、理想的なテーマだった。(略)
鉄道は都会に住む画家たちに田園を開放し、おかげで彼らは容易に郊外に出かけ、描きたい場所を探せるようになったのだ。アルジャントゥイユに日帰り旅行をするだけで、五点か六点の絵が生まれた(略)
また19世紀後半の鉄道の発達は、莫大な富も生み出した。重要なのは、1880年代初頭にフランスが迎えた好景気は、美術市場に多くの金をもたらし、それと同時に印象派絵画に対する需要をも押し上げたということだ。鉄道がもたらした資産という点では、アメリカにはさらに巨大な富が生まれていた。この新しい富裕層もまた、印象派にとってはありがたい存在だった。たとえばメアリー・カサットの兄のアレクサンダーは、ペンシルヴァニア鉄道会社の社長で、印象派の初期のコレクターとなった。

1876年の印象派第二回展の展評

女性一人を含む五、六人の精神異常者たちが(略)自分たちの作品を展示するためにこの画廊に集まっている。(略)
自身を<非妥協派>とか<印象派>と呼んでいるこれらの自称画家たちは、絵の具と筆を手にしてカンヴァスに向かうと、わずかばかりの色をでたらめにおき、それですべて終わりなのだ。(略)精神病院の患者たちが、道ばたの小石を集め、それを愚かにもダイヤモンドだと思いこんでいるようなものだ。人間が虚栄心によって、これほどまでに錯乱状態に押しやられるのを目の当たりにするのは恐ろしことだ。

印象主義拒絶の時代背景

フランスは、普仏戦争の敗北とプロシア軍の侵略という恥ずべき経験と、それに続いたパリ・コミューン無政府状態と流血の殺戮という恐ろしい出来事からの回復期にあった。ドイツ人がフランス人を殺し、そして――さらに悪いことには――フランス人がフランス人を大勢殺したのである。社会全体が政治に不信感を抱いていた。こういった状況下では、保守派の反応が――失われた秩序への切望へと向かい――芸術におけるいかなる新しい動きに対しても暴力的になることは避けられなかったろう。
(略)
印象派に最初に与えられた名前は「非妥協(強硬)派」だったが、これはスペインの連邦共和党アナーキストの一翼が自らに名づけた名前であることからもわかるように、明らかに政治的なニュアンスをともなうものだった。
(略)
印象派が絵のテーマとして日常生活を好んだ傾向もまた、ある者たちから見れば、民主主義的ヴィジョンを故意に、そして危険なかたちで表明したものと解釈されたのだった。

画家の個性のプロモーション

 デュラン=リュエルの存在が特に重要なのは、〈難解な〉現代美術を市場に乗せるという挑戦において、最初に成功を収めたのが彼だったからだ。難しいとされる絵画を理解して買ってもらうためには、その魅力を通訳する専門家が必要だということを、彼はよくわかっていた。そして人々の関心を、個々の絵にだけではなく、その絵を描いた画家本人と彼らの仕事全体へと向けさせることによって、従来の絵画販売の手法に変革を加えたのだ。彼は〈画家の個展〉というアイディアを最初に生んだ先駆者であり――モネ、ルノワールピサロシスレーのための個展を開いている――、その戦略は、〈画家の個性のプロモーション〉とでも呼べるものだった。同時に彼は雑誌とカタログを刊行し、自分が売っている作品の素晴らしさを絶讃し、また説明もした。批評家の存在も重要だった。雑誌や新聞で記事を読むことが、新しい美術を受け入れるための手助けとなったからである。モネもこの重要性に気づいており、1881年、デュラン=リュエル宛ての手紙にこう書いている。「僕自身は、雑誌に書かれた意見を気にすることはほとんどありません。しかし、われわれの時代においては、新聞や雑誌なしには何もできないということは、認めなくてはなりません」。

アメリカで売れた印象派

二十世紀の初頭には、印象主義アメリカで確固たる地位を築いていた。(略)新しい美術様式であれば、アメリカ人は旧世界の人々と同様に、自らの眼識に自信をもつことができたのだ。
(略)
 アメリカ人の嗜好については、ルノワールにも苦々しく思っていることがあった。それはアメリカ人たちが、絵のなかに物語性や感傷的なものを強く望んでいるということだった。ジャン・ルノワールは、父がこんなことをこぼしていたと書いている。
   「あのいまいましい画商という手合いは、大衆が感傷的であることをよく知っているんだ。だから、私の哀れな娘にへどが出るような題をつけたよ。娘にはどうしようもないし、私だってそうだ。やつらはあの作品を《物思い》と呼んでいるんだ」
   彼はこのことを思い出して、顔をしかめた。それから、話し相手の者たちを見つめると、いたずらっぽく眼を輝かせた。「……私のモデルたちは、何も考えちゃいないよ」
(略)
 同様のことが、ルノワールの別の作品《クラピソン夫人の肖像》にもおこっている。(略)
[依頼主に受取り拒否された仏実業家夫人肖像画を]
デュラン=リュエルが買い取り、アメリカ市場向けに《薔薇のなかで》とタイトルをつけ直してリサイクルしたというわけだ。誰かの妻という特定の人物の肖像画ではなく、女性のもつ普遍的な美を描いたセンチメンタルな情景としたことで、より評価を高めたこの絵は、1888年アメリカで買い手を見つけた

米で一番人気だったモネだが

1908年当時、近頃のモネは制作数が多すぎ、近作が希少価値をなくしているという声が高まっていた。だがデュラン=リュエルはこれに対抗するため、新しい方法を生み出した。まず、モネの新作の大展覧会を彼のニューヨークの画廊で開催すると公表し、そしてオープンの一週間前に、その展覧会をキャンセルしたのだ。中止の理由は、新聞の第一面のニュースとなった。


    市場価格十万ドル、三年の歳月をかけた、たゆみない制作の成果である絵画が昨日、クロード・モネ本人の手によって破壊された。なぜなら、その出来が満足のいくものでないことを確信するにいたったからだ。(略)告知を行なった展覧会を開催できないのは大いなる失望であるが、モネ氏の行動は、彼が芸術家であり、単に絵を製造する機械ではないことを示すものだと語った。


 これは、デュラン=リュエルにとって、素晴らしく効果のある企みだった。モネが絵画製造工場でないことを強調することでアメリカ人たちを安心させるのと同時に、ニューヨーク市場にデュラン=リュエルが次にもたらすモネの一連の作品には、この巨匠自身による厳格な品質管理を経たという保証がつけられることになるのだ。

80代になり自身のコレクションを売ることにしたサマセット・モーム、オークション数日前に変心、出品を中止すると言い出した。あせったサザビーズは採用したばかりの若く聡明でハンサムなブルース・チャトウィンを「髪を洗ってから行ってね」と言い含めてモームの下へ。

 「先生があなたにこちらに来て、隣に座ってくれないかとおっしゃっています」と、チャトウィンが部屋に入ると、モームの伴侶であったアラン・サールが告げた。
 「モームのあのおそろしく年老いた指が、僕の髪を梳こうとしたんだぜ!」と、のちにその一件をふりかえったチャトウィンは不平をもらした。(略)
モームとのこの一件が、彼がそれからまもなくサザビーズからの退職を決意し、《堕落した》美術市場から距離をとることになった理由の一つだとよく語っていた。
(略)
私の友人ジャスパーは、チャトウィンよりも柔軟だ。美術市場が特に冷えこんだ時期を思い出して、ジャスパーは「ラッセル・フリントのある作品を年金生活者の買い手に売るために、肉体的奉仕をしなくてはならなかった」という話をしてくれた。いまや市場はより堅調になっているから、そこまで身を落とすことはないと、彼は断言する、少なくとも、シスレーを売るためぐらいでなくては。