会後のまとめ(1)

 昨日の記事「ある回転軸」の続き。本記事中で引用する書籍などは末尾にまとめておく。先に会の雑感や前後のことなどを書いたのだが、これも主目的でもないので後ろへ送ることにする。


 ここでは論を一つ作るというよりも、若島ノート*1に習い、気になった点、会において指摘のあった点、議論した点などを順に列挙していく。

全体
 これは読めばすぐにわかることだが、非常に仕掛けや技巧を凝らす作家の作品であると言える。ジョイスナボコフなどに似ているというのは多くの人が感じるだろう。その上で英文も美しい。ただジョイスらと明らかに違うのは、そこで描かれているテーマ自体(いや、正確に言えば、その技巧の上で何かのテーマを描いているということ、テーマがそもそも存在しているということ)は、とてもはっきりと見せてくれている。その語ることへのある種顕示的な情熱は、むしろメルヴィルやフォークナーなどとの共通点を感じなくもない。
タイトル
 大方の人はタイトルを見た時点で違和感を持つだろう。短編タイトルとして"The Island of Doctor Death and Other Stories"(「デス博士の島その他の物語」)は明らかにおかしい。これは普通、短編集のタイトルである。日本ではあまり無いが、英語では短編集のタイトルとして表題作を上げ、「〜とその他の物語」とするのは常套のことである。少ない例を探すと、村上春樹螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)』は「蛍」「納屋を焼く」という二つを含むいくつかの短編からなる短編集ということになる。従って、この短編を含む短編集はIsland of Dr. Death and Other Stories and Other Stories(『「デス博士の島その他の物語」その他の物語』)となっている。
 これは本文を読めばすぐにこのタイトルの理由はわかるようになっている。この短編中には物語内物語「デス博士の島」があるのだ。その「デス博士の島」とそれを読んでいる少年タックの物語、ということである。ここまでは会以前から考えてあったこと。
 しかし、会において「ならば"Other Stories"はおかしいのではないか」という指摘を受けた。つまり、「その他の物語」が一つしかないではないか、というのである。これには困った。

 この疑問へのまず無難な答えとしては、実際会でもこの意見があったのだが、タックの持つ本が短編集『「デス博士の島」その他の物語』であり、その中の表題作が物語内物語「デス博士の島」ではないか、という考えがある。だが、少なくともわたしはそうは思えない。というのは、どうも本書を読んだ限りでタックの持っている本が短編集という気がしないのだ。彼がこの本を読み進めて行く各所の描写を見ても、またラストシーンのやりとりを読んでも、『デス博士の島』だけからなる一冊の本という気がしている。個人的にはこの案は採用し難い。
 もう一つの考え方は、この物語内物語の中に、さらに物語内物語があるのでこれでよいのだ、という見方もある。実はこの物語内物語「デス博士の島」は、それがはじめて本文中に導入される時に示されているのだが、枠構造を持っている。ある男(一人称Iを使っている)が聞いた話として「デス博士の島」という物語が、このタックの持っている本の中では導入されているのだ。従って、一見して物語内物語と見える(三人称の語り手によって語られる)「デス博士の島」とその本を持つ少年タックとの間に、いわばクッションになるような枠物語のレベルが一つ存在していることになる。これまで数えて、「その他の物語」とするという考え方である。しかし、これもいまいちピンとこない。何しろこの枠の部分が語られているのは本文中たった四行のことなのだ(13)*2

 わたしの考えとしては(根拠は薄いのだが)、物語内物語がどうこうというよりも、むしろこの短編自体が多重層の物語だということを示唆しているのではないだろうかと思っている。わたしはこの小説は、全体が非常に多用な解釈を許す、より正確に述べるなら、非常に多用な読み方が同時に存在し、その一つだけでは完全な読み方とは言えない、そのあらゆる読み方が多層を成し、それを重層的に読んだ上でやっと一つの作品となるような短編だと思っている。そうした層のひとつひとつを小さな物語と考えるならば、このタイトルで正しいのではないだろうか。

 その他のこととして、このタイトルは当然、H.G.ウェルズモロー博士の島 (偕成社文庫)』へのアリュージョンである。このことについては若島ノートにも言及がある。

Winter comes to the water as well as land, though there are no leaves to fall. The waves that were a bright, hard blue yeasterday under a fading sky today are green, opaque, and cold. If you are a boy not wanted in the house you walk the beach for hours, feeling the winter that has come in the night; sand blowing across your shoes, spray wetting the legs of your corduroys. You turn your back to the sea, and with the sharp end of a stick found half buried write in the wet sand Tackman Babcock. (11)


落ち葉こそどこにもないけれど、冬は陸だけでなく海にもやってくる。色あせてゆく空のもと、明るい鋼青色だった昨日の波も、今日はみどり色ににごって冷たい。もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら、きみは浜辺に出て、一夜のうちに訪れた冬景色のなかを何時間も歩きまわるだけだ。砂つぶが靴の上を飛び、しぶきがコーデュロイの裾を濡らす。きみは海に背をむける。半分埋まっていた棒をひろい、そのとがった先っぽで湿った砂の上に名前を書く。タックマン・バブコック、と。 (伊藤 83)*3

書き出し
 わたしの英語力で確かなことは何も言えないが、単純に美しい英文だと思う。下に挙げた伊藤訳に突っ込みどころはいろいろあるが、何より許し難いのは原文の美しさがまるで無いことだ。
 まず気がつくべき点として、ひそやかな音の細工がある。波音を表すような"w"の音が初文のwinter water wellと始まりその後もwaves were wanted walk そしてまたwinterとこだましていく。そこまではっきりしたアリタレーションではないが、th l s これら子音の音の連なりが繰り返されるwと重なってゆっくりと消えていく波音を作る。『ロリータ (新潮文庫)』の書き出しほどではないかもしれないが、見事な語り出しと思われる。

 この小説中タックの物語(つまり、物語内物語である「デス博士の島」の物語以外の部分)は二人称現在という特殊な形式で語られる(物語内物語は、一人称の語り手による枠物語を持つ、よくある三人称の語りになっている)。この形式がどういうもので、どのような効果を狙ったものか(そして作者のミス)は若島ノートのまとめに譲るとして、この特殊な形式に読者を無理なく誘う仕掛けがこの冒頭でなされている。二人称現在とは、物語の焦点人物をyou(きみ)で語る形式なのだが、短編中最初に使われるyouという語はこの焦点人物タックを指すものではなく、一般論を述べる場合につかわれるyou(oneなどと同種)である。日本語にする場合はたいてい「人々」などと訳される(あるいは訳出しない)。この初出のyou:"If you are a boy not wanted in the house"も伊藤訳では「もしきみが家で誰にもかまってもらえない少年なら」とされているが、「家にいて欲しくないと思われているような男の子は」(つまり、邪魔者と思われてるような子供は)程度の一般論の導入である。
 このyouは一般論を導入する時の主語youであるので、読者としても特に違和感なく読み進める。ところが、"you walk the beach for hours, feeling the winter that has come in the night"に進み、一般論からだんだんとある特定の状況が固まりはじめる(敏感な読者なら引っ掛かりを感じるだろう)。そしてセミコロンで繋がれた"sand blowing across your shoes, spray wetting the legs of your corduroys"に至り、一般論の、特に誰かを指しているわけでもなかった漠然とした"you"が、コーデュロイのズボンを穿いた少年として焦点を結ぶ。段落末尾、漠然としたあやふやなyouから塑像されたそのyouに"Tackman Babcock"と名前が与えられ一人の少年として形ができあがる。このタックの、いわば作者による創造の過程をともに経ることで、極めて特殊なこの文体に無理なく読者は誘導されていくのである。
 この創造の過程の最初の段階、まだタックがいわば形を成してもいない胎児の時期に、既に"a boy not wanted in the house"と、家にいて欲しくない邪魔者、さらに言うなら誰からも必要とされてないような子供、としての彼の像がほのめかされていることには注意しておいた方がよいだろう。

 一つの読みの可能性は、大人(man)/子供(cock=san)の対比がこの名前に含まれているという点である。これは作品全体のテーマとも直結する。
 もう一つ指摘しておきたいのは、この短編の範囲内で考えれば、バブコックのバブ(bab)からただちに連想される単語は「ヒヒ」(baboon)であるという点。そこを強調すれば、この名前には人間(man)/獣(baboon)という根本的テーマが含まれていることになる。 (若島 82)

名前
 先ほど引用した冒頭部でこの主人公の名前が明かされる。この名前について言えることは様々あるが、やはり若島氏の指摘は見事という他はない。白状すると、獣(baboon)はともかく、子供(cock)はわたしは全く気がつきもしなかった。短編全体を通じて、氏のおっしゃるように、「大人/子供」の対立があるのは明らかである。それがこんなところにまで潜んでいたとは思いもしなかった。逆に「人間/獣」の対立はそれほど明白なわけではない。こちらの点については読書会でも議論になった。この点について、正直なところ、まだわたしは完全に読めたという実感はない。だが、会の論を踏まえて言うならば、明白な対立があるというよりも、「大人/子供」の対立に絡む一つのキーワードとして「獣」、あるいは「獣性」というものがあると思う。登場する大人たちが確実に持ち、また不完全にタックの目から隠蔽しようとしている「獣性」、そしてそのタック自身が自分の内に潜めている「獣性」(これは氏も指摘されている)。これらについては別のシーンなどでも示される。
 なお、同指摘の後に若島氏も一段落を裂いて述べているのだが、この小説において一つ大きな仕掛けとしてエロスがあることは断っておきたい。各所にセックスそのものや、そのモチーフが現れている。
地理(海、島、本土)
 冒頭すぐに少年タックの住む家とそれが建つ"Settlers Island"(「セトラーズ島」)の説明がある。この島は本土(小説中"land"という語で表される)から完全に切り離された孤島なのではなく、砂州によって繋がれている。だが満潮になるとこの本土との道は海に沈みセトラーズ島は本土と切り離された孤島と成り果てる。この特殊な地理関係には当然誰もが怪しさを感じるだろう(そんな島は世界中を探すと結構現実にもあるらしいのだが)。
 実際この点に関係して読書会においても様々な指摘があった。わたしが重要と思ったものを順に挙げると、まずタックは小説中何度も海を見ている、海の方であったり、海そのものであったり。付け加えて言うと、海を見るタックはいつもどこかしら危うげである。実によいシーンで、後でまた別項目で述べるだろうが、展望台の金網に登り海を見下ろす場面などは非常に印象的である。そして物語内物語「デス博士の島」のキャラクターがメタレプシス*4をおこして初めてタックの元にやってくるのも、この海の方角からである。その海に取り囲まれたセトラーズ島というタック(と母親)の住む「島」はまたデス博士の「島」でもある。砂州によって連結され、満潮海に切り離される本土は、その島に住む彼らの実生活を支える側面を持っていることが示唆される。例えば車を出して彼らが買い物をするのは本土である。島だけでは生活は成り立たない。この海、島、本土の三者関係はなんだろうか。
 わたしにはこれら地理関係は「大人/子供」の対立をもう一つ別の側面から示しているように思われる。タックが住むその島は子供の世界としてあり、それを支える本土は大人の世界としてある。大人になることを拒絶し島に閉じこもろうとするタックだが、悲しいことにその島は大人の世界と砂州で繋がれ、また本土に依存しなければ生活できない。そこから目を背けたタックが見つめるのが、島を囲う海なのだ。海は大人にならなければならないタックの世界を本土から切り離してくれる。彼は海に逃避する。海にタックが見ようとしているのは、現実には存在しないような、子供のタックの目から見た、いわば理想化された大人の世界であり、また永遠に続く子どもの世界(ネバー・ネバー・ランド)なのだ。彼の逃避を助けるために、物語の中のキャラクターたちは必ず海からやってくる(この観点から冒頭の一文の"land","water"などを読み返すのも面白いだろう)。*5

 島についてもう一つ付け加えると、本文中でこの島の形を"barnacle"(フジツボの仲間)に喩えて描写している。この"barnacle"というのは、まさに富士山の形をした日本のフジツボとは違い、小説中にも"barnacle goose"と出てくるように鳥の首の形をしている。さらに言うなら(読みすぎかもしれないのだが)、少なくともランダムハウスの"barnacle"の挿絵を見る限りでは、その形はほとんどペニスにしか見えない。

 その他、地図のこと、道路の形、島の名前、彼の住む家の名前と建築の形などについては細かいことまで含めればいろいろあるのだがここでは省略する。

The drugstore is as big as a supermarket, with long, bright aisles of glassware and notions and paper goods. Jason buys fluid for his lighter at the cigarette counter, and you bring him a book from a revolving wire rack.
"Please, Jason?" (12)


スーパーマーケットほどもありそうな大きなドラッグストアだ。ガラス製品や文具雑貨が店のおくまで何列もきらびやかにならんでいる。ジェイスンはタバコ売場に行き、ライターの石油を買う。きみは回転書棚から本を一冊とって、彼のところへ持ってゆく。「これ買っていい、ジェイスン?」 (伊藤 85)

ドラッグストア
 しかし「石油」はないだろう。それはともかく、物語内物語「デス博士の島」の本が初めて出てくるのがこのドラッグストアに於いてである。ジェイスンはねだられた本を棚に戻したふりをして、車に戻ると懐から出してタックに渡す。要するに万引きしたのだ。ヒゲ、ベルト、リーバイス、言葉遣い、乗っている車はジャガー、とこのジェイスンがどんな人物だかは端的に示されてきたが、ここでほぼその像が確定する。
 ほか注意点として、まずこの店の品揃えだが、"glassware"というと普通はガラスのコップであるとかのガラス製品を指すが、どうもここがドラッグストアであることを含めて考えると、タックの母やジェイスンたちが乱用している麻薬の注射器をここで手に入れているような気もさせる。また"notion"は訳の通り雑貨だが、もう一つ、例えばドクター中松などが売り出すような、役に立つのかも分からない珍発明品という意味もある。マッドサイエンティスト的なものとも通ずるところがある気がするのだ。それらを含めて考えると、後に登場する物語内物語の中でのデス博士の手術室を思わせなくもない。
 この物語内物語の本が盗まれたものであること、直後にジェイスンがそれを指して"camp"(子供だましのB級小説)と述べていることにも注意を払うべきだろう。

"You got a nice, soft mommy, you know that? When I climb on her it's just like being on a big pillow."
  You nod, remembering the times when, lonely and frightened by dreams, you have crawled into her bed and snuggled against her soft warmth--but at the same time angry, knowing Jason is somehow deriding you both.
  Home is silent and dark, and you leave Jason as soon as you can, bounding off down the hall and up the stairs ahead of him, up a second, narrow, twisted flight to your own room in the turret. (13)


「ぼくにはふわふわしたすてきなママがいていいな。知っているか? ママの上にのると、大きな枕に寝てるみたいだぜ」
 夜中悪夢にうなされ、さびしくてママのベッドにもぐりこみ、そのふわふわしたぬくもりに体をすりよせたときのことを思い出して、きみはうなずく――その反面、ジェイスンがなんとなくママときみをあざけっているような気がして、しゃくにさわる。
 家は暗く静まっている。車がとまるより早く、きみはジェイスンのそばをはなれる。彼より先に玄関にとびこみ、大階段を、ついでその上の曲がりくねった狭い階段をのぼり、望楼にあるきみの部屋にかけこむ。 (伊藤 87)


訳中、最初のジェイスンのセリフの「ぼく」はタックを指している。念のため。

ママのセックス
 ここの訳、うーんと考えてしまったのですが、誤訳とまで言いませんがちょっと酷いと思います。後で私訳に差し替えるかもしれません。
 ここの場面でタックの母とその愛人ジェイスンとのセックスが直接読者に示される。先にも述べたようにセックスのテーマはこの小説において重要な役割を果たしている。ジェイスンはどうやらタックには分からないだろうというつもりで「ママの上にのると」と言っているが、若島氏の指摘のように、タックは母とジェイスンが何をしているのかを恐らく分かっている(若島 82)。氏の述べておられるように、冒頭から語られるタックが浜辺に追い出されているシーンは彼らのセックスの邪魔になるからであろうし、またジェイソンがはじめて登場するシーン、その家から出てきてタックに言うセリフ「ママは休みたいんだとさ」(伊藤 84)はセックスの疲労を暗示している。
引用箇所の直前、本を貰ってからの社中でのジェイスンとの会話に現れる(今夜)「ママの部屋に入るなよ」というセリフも同じことを示している。恐らく彼らはこれからするのだ。
 従って、"at the same time angry, knowing Jason is somehow deriding you both."という部分はいくつかの読みが考えられる。まず訳者が恐らく考えているように、タックは彼らが何をしているのかも知らず、ただあざけられたことだけは分かった、とする考え方。しかしわたしは先に述べたようにこの案は採らない。タックは彼らがしていることを十分知っているはずである。ならばどう読むべきだろうか。思うに、重要なのは"angry"という語である。タックは「怒って」いるのだ。何に対しての怒りなのか。もちろん、母親をいわばとられたことへの怒りである。直前にある「さびしくてママのベッドにもぐりこみ、そのふわふわしたぬくもりに体をすりよせたときのことを思い出して」という言葉は、擬似的なセックスをも想像させる。タックは母親としてだけでなく、(恐らくまだそこまでははっきりと自覚できていないだろうが)擬似的な性愛の対象としての母を、自分のものにしておきたかったのだ。この"angry"は、それを奪われたことへの怒りである。だが彼は(まだ未熟といえ)そうした性欲(先に述べた「獣性」とかかわる)が自分の内にあることを認めることはできない。素直に自分の性欲の対象を奪われた怒り、として表に出すことはできないのだ。そこで付け加えるように(まさに分詞構文で付け加えているのだが)「なんとなく馬鹿にされたことが分かって」と、その怒りをすりかえているのである。これが第一の読みとしてあるのではないかとわたしには思われる。これを主軸として、その上でジェイスンの誇示に対する怒り、また、どうせこういってもガキにわかりはしないさ、と思われ馬鹿にされていることへの怒り、なども周辺にあるだろう。
 もう一つの考え方としては、わたしにはこちらも魅力的な読みに思われるのだが、ジェイスンもタックがわかっていることを十分知った上でこのセリフを吐いている、とするものである。どうもわたしには、具体的に何をどうしてどうなってといった詳細まではともかくとして、母と彼がしていることをタックが知らないとジェイスンが思っているわけはないようにも思われてしまうのだ。これはジェイスンが示威的ということにも関わる。彼はこのセリフでほとんど母との情事を子どもに見せびらかしているのではないか。冒頭にせよセックスを隠す、というよりも単に行為の邪魔だから追い出しているだけで、タックの目からそれを隠しているような気はしないのである。むしろ、少なくともジェイスンは、誇示しているようなところがある。ならばタックの怒りは、先の読みのものに加えて、その誇示そのものにも向けられるだろう。またこのように読むならば、「ぼく[タック]にはふわふわしたすてきなママがいていいな。知っているか?」というこの言葉も、むしろ「お前はママの体の味をまだ分からないだろう?」という意味にも取れてしまう。まだセックスもできないガキにはどうせママの体のよさもわからないだろう、とタックは馬鹿にされているのだ。ここまでいくと極端な読みということになってしまうのだろうが、重層的な物語の読みの一つとしては考えておきたいことでもある。
 なお、読書会に於いては「ママの上にのると、大きな枕に寝てるみたいだぜ」の部分を指して、「ママ、デブなんじゃないの」という意見も出た。面白いが、さすがにこれは珍解釈であろう。

 この引用のすぐ前の「ママの部屋に入るなよ」というセリフに、これからジェイスンと母がセックスするであろうことは先に述べた。「地理」の項目で挙げたことと関連して、母親のセックスを示すそのセリフに"Okay."(「うん」)と答えたまさに直後にタックが海を見ていることは指摘しておきたい。

 さて引用後半、家に入って自分の部屋へ駆け上がる部分であるが、その描写はまるで逃げ込んでいるようである。この引用が終わったところから、タックの読む物語内物語「デス博士の島」になるのであるが、読み進めればわかるように、タックは本を読んだまま眠ってしまい、次は朝のシーンになる。母親はまだ起きておらず、その部屋から服を着てジェイスンが出てくる(わざわざ"dressed"「服を着て」と書いてあることは見逃してはならない)。それを踏まえて、引用後半の描写を見直すとタックが何からどう逃げているのかが多少はっきりするだろう。タックは複雑なつくりの屋敷の階段を逃げるようにかけ登り自分の部屋に入る。部屋に入ったら何の描写もされることなく(服を着替えたりとか、ベッドに入ったりとか)、彼の読んでいる本の中へと語りは進む。まさに、本の中へ逃げ込んでいるようだ。こうした細部が描かれないのは小説には当たり前の省略であるが、わたしとしてはやはり少しは意図的なものがあるのではないかと勘ぐってみたい。タックは何から逃げているのか。
 もちろん、「車がとまるより早く、きみはジェイスンのそばをはなれる」とあるように、直接にはジェイスンから逃げているのである。だがそれはジェイスンのさっきのセリフに機嫌を損ねて、という程度のものではない。ジェイスンによって示される、これから行われる母のセックスから彼は逃げようとしているのである。母とジェイスンとの情事を、始まる前のその二人のやりとりなどのことすらも、目にもしないように一目散に自分の部屋にかけあがり、本に没頭しようとするのである。この先はわたしの想像でしかないが、述べたようなすぐさま本を読み始めるさまなどを見るに、恐らくそうでもしなければ、いかに広い家とはいえ、セックスをしている時の母の声が彼の部屋にも聞こえてしまうのではないだろうか。それを聞きたくもないからタックは必死で本に逃げ込もうとしているのである。またこれはさらに確証がないが、そこまで嫌悪することの背景には、彼が実際に母の行為を目撃してしまったことがあるのではないかと疑いたくもなる。また先の議論での、ジェイスンは分かってタックに言っているのではないか、という読みをするならば、そのような示威的なジェイスンが(恐らく声を聞かれても構わないくらいにしか思っていまい)冒頭のシーンでわざわざタックを家から追い出しているのは、過去に目撃され、そのせいで中断せざるをえなかったことがあるのかもしれない。なお、先の論でのジェイスンの示威的なところというのは、ここでの声が聞こえるのが分かっていてやっているのではないかというのも含めての考えである。


ポイントを細かく拾っていたら随分時間を食ってしまった。深夜になってしまったので続きはまた改めて書くことにする。

  • 雑感など


 昨日書いたように、もともといろいろ思いいれもあって読書会でGene Wolfe "The Island of Doctor Death and Other Stories"を取り上げることに決めた。過去何度も読み返したこともあり、また四年は前のことになるが同じ読書会で発表したこともあり、それほど準備に時間も(負担も)かからないだろうと思っていた。だがわたしの甘い予想に反して、今回また読み直してみたのだが、非常に難しいテクストと感じた。正直これほど難解とはこれまで思ったことも無かった。今まで何度も読んではいたが、しっかりとは読めてもいなかったということなのだろう。会の叩き台とすべき自分の論を作るだけでも結構な時間がかかってしまった。


 『S-Fマガジン』の十月号はこのジーン・ウルフの特集であった。「ケルベロス第五の首 (未来の文学)」刊行記念ということであるのだが、著者のセルフ・インタビューの翻訳など興味深い記事が多くある。この中で若島正氏がこの短編について「「デス博士の島その他の物語」ノート」という記事を載せている。この記事のことは知ってはいたのだが、この短編に対する自分自身の論を作り上げてから読もうと思い読書会の直前まで読んでいなかった。さもないと、わたし程度の読解力では自分の考えを作り上げることもできず、氏の多大な影響を受けるだけで終わってしまうだろう。会の原論となるものを作ってからこの記事に目を通した。(当たり前だが)多くの部分で読みは共通していた。(これまた当たり前だが)そしていくつかの部分でわたしには到底なしえないような深い読みを見せていた。会自体でも、同じ理由から一通り参加者の大まかな意見が出揃うのを待ってからこの記事を配布した。その後若島氏の読みを踏まえた上でもう一度討論をやりなおす、という手順を踏んだ。


 また会直前にウェブで同記事に対する様々な反応を漁っていた。中でmixmaxさんという方が若島氏の記事のまとめと、さらにそれを踏まえたご自分の読みを発表されていた。これもまたわたし自身の参考とさせてもらった。


 会後、参加者の反応は非常によかった。特に優秀な二人の後輩が、この短編を大変面白いと評価してくれたのが嬉しい。一人は(それまでウルフどころかSFというジャンル自体まったく読んでなかったそうだが)これを機にアマゾンから取り寄せたと言っていた。

言及した書籍など

Gene Wolfe "The Island of Doctor Death and Other Stories"
Island of Dr. Death and Other Stories and Other Storiesに収録。

特に記載の無い限り、カッコの中のページ数は全てこの本に対する言及とする。せめてこれくらいは形式的な書籍情報も書いておく。

Wolfe, Gene "The Island of Doctor Death and Other Stories", rpt. in Gene Wolfe Island of Dr. Death and Other Stories and Other Stories (1980), pp.11-25.

ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」 伊藤典夫
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア他 中村融 山岸真 編 『20世紀SF〈4〉1970年代―接続された女 (河出文庫)』に収録。

和訳は問題のない限りこれを使う。何かしら理由があり私訳している場合は別に明記する。

若島正 「「デス博士の島その他の物語」ノート」
S-Fマガジン 2004年10月号 掲載

本文中ではたいてい「若島ノート」として言及する。同号はジーン・ウルフ特集が組まれている。この記事の他にも同雑誌から言及することもあるかもしれない。

mixmaxさん*6 「『デス博士の島その他の物語』をめぐる物語、またはDeathnaut

読書会の前にウェブで関連記事をいろいろあさっていたが、「若島ノート」(この呼称自体この方の記事から借用しているのだが)のまとめとして、またこのmixmaxさん自体の読みとして、両方の意味でわたしには楽しめた。

*1:若島正「「デス博士の島その他の物語」ノート」S-Fマガジン2004年10月号掲載

*2:以下、断りのない限りカッコ内の数字は全てIsland of Dr. Death and Other Stories and Other Storiesでのページを示す

*3:伊藤典夫訳 『20世紀SF〈4〉1970年代―接続された女 (河出文庫)』に掲載

*4:See 若島 80.

*5:このあたりのことは若島氏も全く別の角度(ダンの詩のアリュージョン)から述べている。See 若島 82.

*6:一人だけ敬称をつけるのも変ですがなんとなく。