カウンセリングのこと

 25歳のことだからもう25年も前にもなるけど、半年くらいかな、カウンセリングに通っていたことがある。そう頻繁でもなかった。案外5回くらいだったかもしれない。グループミーティングは3回くらいかな。
 カウンセリングというのはいろいろあって、その後、本などを読むに、自分の体験はあまり一般化はできないかと思う。カウンセラーは今の私くらいのおばさんで、かなり知的な人でそのころ再婚していた。結婚どうですかと聞いたら、10歳くらいの子供(連れ子)ができてお母さんになるんだなとか言っていた。
 彼女は理論的にはロジャーズ系だった。精神分析学については、奇妙なことにというか当たり前のことにというか、私のほうが詳しかった。それが心の問題をこじらせていた面もあるかもしれない。ロジャーズの話もした。彼女はあまり理論には関心をもっていなかった。また理論を超えるといった気負いもなかった。普通に知的なおばさんで、私の話をきちんと聞き取ろうとだけしていた。
 私は、自覚があったのだが、内面を語るとき、内面がかなりマクロコール化していて、マクロを展開しないと言語にならないのだけど、あたりまえのことなんだけど、それに付き合って話を聞いてくれる人なんていなかった。ちなみに、今でもこのマクロコール化の心性は同じで、ここでもけっこうそのまま書いていたりする。ほのめかしとか言われるのはそれもあるかもしれない。(今でもきちんと展開すれば人には通じるだろうと思うけど双方その努力に値するリザルトはないんじゃないかな。)
 カウンセリングで話しながら、彼女は、マクロ展開によく付き合ってくれた。と同時に、自分では展開すれば普通に通じるだろう(知的な、不毛な努力は必要とされるだろうけど)とは思ったが、その過程で、ああ通じるかもしれないというのが奇妙に光明のように感じられたのは鮮明に覚えている。
 ついでにこのマクロ化が酷くなると。

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知覚の呪縛―病理学的考察 (ちくま学芸文庫): 渡辺 哲夫
 カウンセリングに行ったのは、しかし、そういうことではなく、離人症的な症状が起きていたからだった。感情が意識と分離していたり、その他、いろいろこのあたりの感覚は一生わからない人はわからないのだろう。後に、年上の女性と呑んで、そのあたりの話をしたら、「わかるわよ」とさらっと語ってくれた。そのとおり。
 離人症的な部分は病理性があるかもしれないというか、カウンセラーもわからないので、たまに来る分析家のアポをとってくれた。というわけで、分析家とも合った。これが、まあ、かなりひどい人。40代くらいかな、クライアントの前でパイプタバコを吸って、なんか悪意のように観察していた。結果は正常ということ。まあ、戦略的にそうしていたのかもしれないけど。
 ああ、通じるかもしれないという光明に続いて、結局、というか、もちろん、カウンセリングしていても埒の明くことではない。むしろ、自分の苦しみというか混乱の根を深く探っていくのだけど、そうしていくうちに、なんというのか、この日記でもへろへろ書いているけど、古典の人々、アウレリウスとかプラントンとかとかとか、そういう死者の言葉と広く通じているような奇妙な感覚があった。孤独を深く深く掘り下げたところにぽかんと井戸のような穴が開いていて、そこで時空を超えて賢人たちと通じるなにかがあるような感じがした。孤独で、もうどうしようないところにきたら、なんか、死者たちと通じたような気がしますねと私はカウンセラーに言った。彼女は少し涙ぐんだ感じはあった。と同時に、それを理解したわけではなかった。
 いつのまにかカウンセリングは終えた。私はといえば人間的に成長などしなかった。すごいいやなヤツになった。今でもそうだけど。でも、生き始めた。
 外人の友だちが、ちょっと政治的な感じでいやったらしくかつそれでいてオネストに、君はゲイに狙われているよと諭してくれたことがあった。君っていう人はつけこみ安いんだよとも。そうかもしれない。
 ま、以前にも書いたかもしれないけど、なんかふと思い出したので。