フリーターと戦争

以下は、考えをはっきりさせるつもりで書いたものです。
大事なことだとおもうのですが、解決法の見出せない暗い内容なので、ご了承ください。


番組「フリーター漂流」のなかで、マイクロバスに揺られて工場に移送されていく若者たちの姿に、「戦争」のイメージが重なった人は少なくないのではないだろうか。
昨日も書いたような、資本や権力の手段としての人間の「部品化」という事態が進むと、個の生命の価値の否定としての「戦争」が現実味を帯びてくる。率直なところ、あの番組で紹介されていた北海道の若者たちにとって、いま数少ない就職先のひとつは自衛隊だろう。マイケル・ムーアが描いているアメリカの中西部などと似た状況になりつつある。


それに関連して思うのは、「ニート」問題で、自衛隊に強制的に入隊させろという主張があると聞くが、これは感情論ではなく、そういう実際的な必要が出てきているということではないだろうか。
いま自衛隊は志願制であるが、アメリカとの同盟が強化されるなかで、憲法改正ということになれば、隊員が戦地に出て行く機会はやはり増えるのではないか。そうなれば入隊希望者は減るとかんがえるのが普通だろう。そのとき、いきなり徴兵制という方法をとるのは難しいから、できるだけ世論の同意を得られそうな方法で兵員を確保したいという思惑ではあるまいか。
イラクに行っているアメリカ軍を見ていると、貧しい階層の人や移民してきたばかりの人たちが、自分の将来のためや家族の市民権をとるために従軍するというケースが多いようだ。
日本の場合には、アメリカのように移民をたくさん受け入れるつもりはないだろうから、いま「フリーター」や「ニート」といわれている人たちは、国防面では有力な人材補給源と見なされているのかもしれない。


この背景には、そもそも現在の世界では、軍隊の存在自身が、かつてのような国民軍的なものとしては成立しなくなってきているということがある。つまり、国民が自分の国を守るために従軍するという形ではなくなってきているわけで、愛国心や国民軍の思想と結びついた徴兵制という制度を、単純に復活させることには無理がある。
そこで、社会的な階層の低い人や、不安定な人たちを、「愛国心」のような媒介を通さずに、直接に「部品」として兵役にとり、戦場に送り込むという方法がとられているのではないか。
そうなると教育にしても、「愛国心」のある国民を育てるよりも、なんでもいうことを聞く「部品」のような人間を作り上げた方が、現状では都合がいいということになろう。徴兵制を前提にしていた時代の「愛国心」教育とは、いまはやり方が別物になっているはずだとおもうのだが、実際はどうなんだろう。


あのマイクロバスに揺られている若者たちの姿は、そういう「部品」としての兵士たちの姿、イラクの報道などで目にするアメリカの多くの若い兵士たちの姿に重なって見えた。「あんな残虐な行為をしている奴らと同じだというのか」といわれるかもしれないが、ぼくはイラク人を殺したり虐待しているアメリカ兵たちが、愛国者や「国民」「市民」といったものには見えない。なにか、政府や社会から「ぼろきれ」であると決めつけられて生きてきた人たちのように見える。別の言い方をすれば、「部品」である。
それに、あの「フリーター」たちの姿が重なってしまう。


最近の報道によると、アメリカは通称「殺人ロボット」といって、ハイテクのカメラ装置と射撃装置を備えた「ロボット兵」みたいな機械を、イラクに「派遣」するという。人間の目がとらえられない対象をとらえ、射撃は正確無比で、百発百中目標を撃ちぬくらしい。文字通りの殺人機械だ。これは、アメリカ兵に死傷者が増えて、「嫌戦」的な世論が国内で高まらないようにするための方策だといわれている。
イラク人の命をなんともおもっていない」という非難は、その通りだが、それ以前にアメリカ兵の存在がそもそも「機械」と代替可能なものだと、完全に割り切っているわけだ。
つまり、「国民」ではなく、「部品」が戦争をしているにすぎない。


もちろん、戦争とはもともとそういうものだろうが、その現実を「愛国心」のようなイデオロギーでコーティングしないようになってきたのだ。


この露骨さが、アメリカの戦争のやり方の、また世界を支配するやり方の底にある気がする。やっていることは昔とさほど変わらないかもしれないが、イデオロギーのような装置を使わなくなって、欲望がむき出しになっているのだ。


人間が、労働力としてだけでなく生命の全体としての人間が、「部品」として扱われ使い捨てにされる社会。
それは、将来の不安ではなく、すでにいまある現実なのだ。