市野川・ルソー・ニーチェをめぐって、若干のこと

先日も書いたように、市野川容孝著『社会』(岩波書店)のなかに、ルソーのことが論じられている章があるのだが、この章の後半では、その関連でニーチェが論じられている。


ルソーとニーチェが並んで語られている理由は、ルソーが自由や平等の実現される理想的な社会を構想しながら、国家に命を捧げることの強制や宗教的排他主義といった『過剰な統合を迫る不寛容な命題』(p119)に行き着いてしまったという矛盾と、ニーチェがやはり自由や「生の肯定」ということを追求しながら、ファシズムや優生思想に直結するような激烈な反社会的言論を書き連ねることになったという矛盾とが、同じ根源に発していると考えられているためである。
その「根源」とはなにかというと、ぼくが読みとれたところでは、じつは両者の内部にニーチェが「ルサンチマン」と呼び、またルソーが(悪しき)旧来の「社会」の名において批判したような情動が存在していたことだと、著者は考えている。
彼らは、彼らが最大の批判・攻撃の対象としたものから自由ではなかった。むしろ、そういう力の内部にあることから逃れられなかったことが、上記の「矛盾」を引き起こしたのだと、市野川は見るわけである。
この内部にある力、情動は、「転移」と言い換えてよいものだと思う。
ルソーもニーチェも、「自然人」の特質であるとされる他人への強烈な「同化」の心理(市野川はこれについて、有名なメルロ=ポンティの書いている例をあげている)、つまり他人の苦しみや悲しみを自分自身のこととして感じてしまう力を持っていた。市野川の主張の要点は、自分と他者との差異を否定し「統合」しようとするこの心理、欲求が、じつは「ルサンチマン」を引き起こす元となる社会的人間の「比較」の心理と、同じ質をもつものだということである。つまり、「自然人」の偉大な感情的能力は、またルサンチマンという卑小な「社会」的な感情の源でもある、という逆説。


ニーチェについて著者が書いていることを見てみると、弱者への憐れみや同情を排撃し、弱者が子孫を残すことを許すような社会であってはならないという攻撃的な主張を繰り返すニーチェの根底にあるのは、ニーチェ自身が自分を弱者であり敗者、『子どもをもつことが犯罪であるような人間』、抹殺すべき生命としてとらえていたという自虐的な感情であると、著者はみる。
ぼくはニーチェについて多くのことを知らないが、こうしたことは一般的にありそうなことだと思える。自分が「弱者」と考える対象への過剰な攻撃を繰り返す根底には、社会的な「弱者」「敗者」として自己規定された自分自身への絶望的な憎悪がある。この図式はわかりやすいし、多くの場合当たってもいると思う。
著者が、このメカニズムを、人々がファシズムに魅了され、自ら権力に服従して自分の自由や権利や、生命までも放棄することを選ぶにいたることの説明としても描いていることには、だから説得力を感じる。
ルソーとニーチェを結ぶひとつのキーワードは「自虐性」ということで、それは自他への攻撃と否定ということ、また全体主義的な「服従」への欲望という社会全体の問題と結びつくものだろう。


ただ、ニーチェが「憐れみや同情」を排撃したことについては、別の意味で市野川は支持を与えている。それは、こうした感情が、自分と他者との差異を消し去ってしまう「転移」的なもの、統合への欲求につながるものだと考えられるからである。
他人を自分と同一のものとして思いやり、憐れみ、苦しむ感情は、差異の忘却、他者の消去に、ひいては「統合された社会」への狂信的な希求につながる(たとえば、リルケはこのことに敏感だったと思う)。市野川が言っているのは、このことである。
ニーチェの思想が(そしてルソーの思想も)、ファシズム全体主義と親近性をもつ理由は、じつはここにあるということだ。


ルソーに話をうつして、もう一度著者の言っていることを整理してみる。
ルソーは、人が「自然状態」から脱して(私的所有)、「社会」というものを形成したことにより、平等な社会の実現という理念を持つことが可能になったと同時に、上に述べた「同化」の力(論理)からも遠ざかって、「比較」の論理のなかに入ってしまったと考えていた。
つまり、自分と他人とを比較するという仕組みにとらわれるようになったのであり、そこから「ルサンチマン」と呼べるような暗い情念が生じてくる。

平等への意志が, 嫉妬, 羨望, 憎悪, 復讐という暗い情念を誘発しかねないということ, 自由を論じながら, ルソーが問題にしているのは, 実はそういうことなのだ. (p121)


たしかに、『孤独な散歩者の夢想』などを読んでも、「社会」(ネガティブなものとしての、現存の社会)に充満しているそのような情念へのルソーの嫌悪と疲弊は激しく、それゆえにかれは「自然」のなかで隠棲することを選んだ。
この彼の「自然人」としての性向が、そうした社会を『社会契約論』に描かれたような平等の理念のために「統合」しようとする過激な意志、一種の全体主義的な想念へとその思想を向わせた、というわけだ。
だが、すでに述べたように市野川は、その「比較」の情念にとりつかれた「社会」を嫌悪し、孤独に閉じこもって「統合された社会」を夢想するルソーの「自然人」的なあり方が、じつは彼の嫌悪した「社会」と同じ質を有するものだったのではないかと考えている。同じ質という意味は、それが自他のほんとうの差異を認めない精神のあり方だということである。
「同化」も「比較」も、差異を消し去り、忘却し、統合に向おうとする欲求を根底に持っていることでは同じである。

ルソーは, 自尊心に目覚めてしまった社会人に見られるこの「比較」という罠と, 自己愛しか知らぬ自然人の「同化」を互いに対立させたが, 実はそれは間違いなのだ. (中略) 嫉妬を最終的に消滅させられるのは, 自然人の自己愛にそなわる「同化」の原理ではない. 自尊心を基礎づける, 私とあなたの区別の方である. (p125〜126)


そして、市野川がここで提示しているのは、もちろん「差異の尊重」にもとづいた平等の理念、ということである。


ここで、自分の感想をまとめる。
ルソーという思想家の大きな特質をなしていた「同化」の力、コンパッションという名でも呼ばれていたもの、それはアーレントが厳しく吟味したものでもあったと思うが、それが同時に全体主義につうじるような社会の「統合」への意志を生み出すのだという市野川の認識は、よく分かった。
この意味で、たぶんニーチェと同様に、ルソーという思想家の限界と危険性はかなり明瞭だろう。
また、この「同化」の力が、ルサンチマンを生み出すような「比較」の論理と別物でないということ、両者には「転移」という言葉でくくれるような(と、ぼくは考える)共通性があるということ、だからそれとはまったく別の理念、自他の区別、差異を明確にするようなタイプの精神性こそが、今後の社会を構想するにあたっては大切なのだという、この著者の主張も、筋が通っているとは思う。


だがそれでも、アーレントとはたぶん別の仕方で、このルソーの巨大な「同化」、「共感」の能力をなんとか救済したいという気持ちが、ぼくにはある。
ルソーは、その「同化」の能力ゆえに生じる自分のなかの不安定さ、脆弱さに耐えられなかったがゆえに、隠棲と孤独を選ぶと共に「統合された社会」を夢想することになってしまったのだった。
だがこの道筋は、不可避のものだったのだろうか。
ルソーが、この自分のなかの不安定さを引き受けながら、この不安定さとともに、またその不安定さ、脆弱さ、卑小さにもとづいて社会を構想し、関わっていくという可能性はなかったのだろうか。
市野川の言う「差異の平等」という考えの重要さを認めると同時に、ルソーの「同化」と「転移」の能力や、またその「自虐性」についても、そうした方向から、その反権力的な可能性を探れないものかと思う。