虚しい理想

予想はしてたことだけど、胸が悪いわ、こういうニュースは。
元々公然と行われてきた排除と差別の上に、さらなる排除の上塗り。
(社会全体での教育の負担という)「普遍的な理想」が聞いて呆れる。


http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010022500944

鳩山由紀夫首相は25日夕、中井洽拉致問題担当相が朝鮮学校を高校の実質無償化の対象外とするよう求めていることに関し、「そのような方向性になりそうだというふうには聞いている」と述べ、対象から除外する可能性を示唆した。国会内で記者団の質問に答えた。
 首相は「指導内容というか、どういうことを教えているのかということが、必ずしも見えない中で、私は中井大臣の考え方は一つあると考えている」と語った。


学費無償化の対象から外されたからといって、子どもを朝鮮学校に通わせることをやめようという保護者は、おそらくそれほどいないだろう。そもそも、「無償化してくれ」と思ってる人たちがそのなかにどのぐらいいるのかさえ、ぼくには見当がつかない。
だが考えるべき大事なことは、相手が何を思ってるか(望んでるか)ということではなくて、われわれの国や社会の側が、どういう振る舞いをするか、ということである。
いや、というよりも、この国がどういう国であるのかを、こういう形で世界の前にさらけ出しているというのが実際ではないか。
こんな仕方で、当初から行われてきた排除の上に新たな排除を塗り重ねてみせることで、われわれの国は、世界にその閉鎖性を広く知らしめている、つまりは自らが排除されたりバッシングの対象となる芽を蒔いているわけである。
まったくご苦労なことだ。


首相がこうした発言をしたのは、もちろん世論調査の結果をみて、適用対象から外した方が次の選挙に優位に働くという計算があるからだろう。
それは、こういう排除的な政策を望んでいるのが、他ならぬわれわれ有権者の大半であり、われわれが政治家たちに、こうした政策を実行させつつあるのだ、ということ以外を意味しない。
その意味では、われわれ有権者こそ排除を行う主体であるといえる。
だが、次のようなこともいえる。


政治家や官僚は、こうした排除(他の例だと、たとえば生活保護など社会保障の問題)の理由として、よくコストの問題を口にするけれども、コストというのはたんなる数字上の事柄ではなくて、大衆の意識のなかにある「排除への欲望」を肯定し、それを扇動することで社会の管理や統治を円滑に進めていくための手段という部分がある。
そして、われわれ大衆のなかに埋め込まれたこの「排除への欲望」という装置による要求を理由として、さまざまな場面における実際の排除を行っていくわけだが、忘れてはいけないことは、この装置は、われわれ自身の存在を対象としても作動する、ということだ。
つまり、この装置に動かされて、都合よく排除的な日常を生きている限りは、いつか人は自分自身を排除(抹消)することを望むようになる。
いや、他者に対する排除は、そもそもこの自分自身の排除への欲望を根に持つもの、そのひとつの現象形態だとさえいえるだろう。われわれがわれわれ自身の排除を暗に望むようになることが、他者の排除をわれわれが望み、そうした排除的な政策が円滑に行われるための条件だとさえいえるのである。
これが、権力を握る者たちの真の狙いなのだ。
一部の右翼的な大衆だけが排除的であるといってすむはずはなく、この種の排除はこの国のあり方(権力)の根幹に関わる事柄だという事は、このことからも分かるだろう。


だから、自分たちの国や社会が閉鎖的で差別的であることを世界に示したいという、この社会全体の支配的な欲望は、つまりは「われわれ自身を排除(抹消)せよ」という暗黙のメッセージでさえあるわけだが、その欲望がどれほど強いものであっても、それは本当は「私たち自身の欲望」ではないのだ。
そうしたいわば他者の欲望を乗り越えて、私たちが自分の欲望を取り戻すためには、だから鳩山のように「指導内容が見えない」からなどと世迷言の言い訳を言う余地もなく、高校授業料の無償化なら無償化というひとつの理念を、われわれ自身を覆っている差別や偏見の薄膜(それが国柄だとかナショナリズムだとか美化されもするわけだが)を突き破るようにして、この社会のすべての人たちに無条件的に届かせる必要がある。
それは「彼(彼女)らの問題」である手前で、まずは私たち自身の問題なのだ。
もとよりそのことは、植民地支配や、その継続としての戦後の国のあり方への全面的な直面という困難な課題を不可欠のものとするだろう。だが、この国ではそもそも、どんな普遍的な理念も、その歴史と現在との直面の過程を踏まなければ、決して実現し得ないほどに、権力の支配は強力なのだと思う。