「左折の改憲」論について

最近、憲法9条の改正を平和主義の側から提起しようという、「左折の改憲」論というものが多く出されているようだ。
私はこれには反対なので、そのことを一言しておきたい。


私が具体的に読んだのは、マガジン9に載った想田和弘氏の以下の二つの記事である。
http://www.magazine9.jp/article/soda/22727/
http://www.magazine9.jp/article/soda/23445/


これらの文章について言うと、正直言って、論理がよく分からない。
この人の発言は、私はこれまでもっぱらツイッターで見てきただけだが、卓見が多く、よく学ばせてきてもらった人だけに、残念だ。
安倍による解釈改憲、「戦争法」の強引な「成立」が、想田氏のいう「創憲」の提言の直接の契機だということのようだが、守るべき原則がそれを無効化させることを狙って蹂躙されたなら、その原則の順守を掲げて闘う以外に、その蹂躙という破壊行為に立ち向かう方法はないのではなかろうか。
それを、こちらから蹂躙された原則の放棄を申し出てしまったのでは、安倍のやったことを正当化とまでは言わなくても、追認したようなことになり、結果として相手に力を与えてしまうであろう。
法が無視されたから、この法律はもう廃止にしましょうというのでは、あえて無視した人の思う壺だとしか言いようがない。今回の安倍政権の行いは、9条をよりいっそう擁護していく理由にこそなれ、それを自分から手放す理由にはなりようがないと思うのだが、違うだろうか。
想田氏の意見は、改憲がやむをえない情勢だと判断した上で(この判断は、たぶん妥当だろう)、「個別的自衛権容認、集団的自衛権禁止」が、有権者多数の趨勢だから、安倍の先手を打つ形で、こちらからそれを明記した改憲案を提起して争おうというものだと思う
だが、これは既に言っている人がいるが、今回安倍が示したのは、どんな条文を憲法に書き込んだところで、そんなものには現実政治は一切拘束されないという断固たる態度である。
どんな「創憲」案をつくったところで、それが安倍・自民党のファッショ路線の歯止めになるはずがない。
歯止めは、今回のような「壊憲」の行為の否定、拒絶ということを置いてないのだ。想田氏のような意見(「左折改憲論」)は、それとは真逆の効果をもつものだということを、僕は言いたいのである。
それに、集団的自衛権を認めないということが有権者の多数意見だと、想田氏は言うが、それは確かなことだろうか?私は、一時期の世論調査でそういう結果が出たとしても、それは現行の憲法9条が存在しているから成り立っているような世論の漠然とした傾向であって、「9条改憲」が与野党を問わず圧倒的な既定路線と認識されるようになれば、ましてや9条の改憲が何らかの形で実現してしまえば、たちどころに有権者の多数意見は「集団的自衛権容認」に変るだろうと思う。安倍政権の高止まりの支持率は、すでにそのことを暗示しているのである。


私は、想田氏の本心は、「9条」という不自然な重しを憲法から取り去りたいということだろうと思う。
実際、想田氏は他のところで、憲法に明記された人権の保障こそが守るべき大事なものであって、われわれは9条と心中するわけにはいかないのだ、というようなことを書いている。
また上記の記事でも、平和主義を守ることが大事で、9条を守ることが大事なのではない、という風に明言している。
こうした意見は、もちろん想田氏ひとりのものではなく、多くの護憲・平和主義(リベラル)の人たちにも共有されてるものだと思うが、私はそれに異論がある。


言われ尽してきたことだろうが、私は9条は、侵略戦争の加害国になるという歴史の体験を経た日本国民の、深い反省の意思の表明だと思う。
侵略戦争は、日本人が、それに突き進んだ国家と一体化することによって、周辺の国々をはじめとして多くの人々の命を奪い、損害を与え、そしてまた、日本人自身をも含めた「人間」という総体を修復不可能なほどに裏切り、毀損したという体験なのであり、9条は、その体験の引き受けと反省を表現したものだ。
歴史上、こんな行為をしたのは、もちろん日本人ばかりではないだろう。だが、日本国民が主体的に引き受けることが出来るのは、日本国民自身の体験だけであり、9条と憲法の全体には、その固有の歴史的体験の重さが刻まれていると、私は思う。
憲法前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』という不思議な言い回しも、その体験の重みから発した捩じれのようなものではないだろうか。幾つもの条件が重なり合って、こういう表現になっているが、そこで表明されている戦争放棄の思想(理念)は、普遍的な価値をもつものだと思う。
自分たちが引き起こした戦争の惨禍を反省し、たとえ「自衛のため」であれ、戦争を二度と行わないという明白な言明。
それは、決して日本国民だけに帰属するものではなく、歴史の過酷な体験を経てきた「人間」全体の遺産というべきものだ。


こうした、実現不可能と思えるような理念の重荷を、再度の軍国化への歯止めとして、あえて自国に課すという行為によって、日本はその体験の引き受けと反省の真摯さを他者に向って表明したわけであり、とりわけ日本から大きな被害を受けた周辺国の人々は、それを見て戦後日本への信頼を辛うじて保ってきた。
とはいえ、日本が実態としてはまったくこの「約束」(9条の理念)を守ってこなかったことは、周知のとおりであり、上記の想田氏の記事にも書かれているところだ。
私たちは、被害を受けた人たち、また特に犠牲になった多くの人々に対する約束としての、9条の理念を、とてもまともに実現してきたとはいえない。これは、忘れてはいけないことである。
だが、それでも、平和憲法という「重荷」を課し続けることで少しでも軍国化に歯止めをかけようと努力する姿勢に、日本自身の「公正と信義」に対する信頼の最後の拠り所を見出しそうとしてきたというのが、アジアの人々の実際なのだ。
9条改憲は、その微かな願いのようなものを踏みにじり、突き崩してしまう。
そして、同時にそれは言うまでもなく、日本国と「人間」としての日本人自身にとっても、戦争への欲望を辛うじて抑え込んできた最後の堰の決壊を意味するだろう。
9条改憲は、どう理屈をつけようと、戦争への道を決定的に開く行為に他ならないと、私は思う。


ところで、9条が上に書いたような歴史的体験の引き受けから生じた意思の表明であるとすれば、日本国憲法の全体、ひいては日本の立憲主義そのものが、その固有性においては、9条こそをその基盤としているとはいえまいか?
国家と一体化することなく、国民の責任において国家の暴走に歯止めをかけるという立憲主義の理念は、日本の歴史においては、侵略戦争による甚大な被害を引き起こしてしまった国民としての悔いと反省にその根を持つものだ。それは、戦争によって死んでいった全ての人たちに対する、権力に加担して再び惨禍を生じさせないという誓いの意思を、その実質としているのである。
この歴史的に形成された意思を離れて、具体的な日本の立憲主義というものは考えられない。
だから、9条の尊重に基づかない日本の立憲主義は虚妄であり、憲法全体も虚妄である。


そしてさらにいえば、9条にすぐれて示されているような「人間」の尊重の思想、平和への意志を根底に持たないような、いかなる立憲主義憲法も虚妄であると、普遍的に言えるのだと思う。
加害の体験をへた私たちには、9条に示された激越なまでの平和への思想を、自らの身をもって世界に呈示していく人類的な責務があるのだ。
これは、「平和憲法を持つ日本国民としての誇り」などということとは無縁であり、「人間」という普遍的存在として当たり前の、だが特に、決して忘れてはならない惨禍を引き起こした国民であるからこそ、それを正面から引き受けて掲げることを義務づけられた、一個の理念なのだ。
いや、それは単なる理念というより、他者との関わりにおいて惨禍を引き起こし、自らも悲惨な体験をした「人間」たちが発した、ぎりぎりの、小さな声の記憶と言うべきものかもしれない。私たちの務めは、この世界が、人間のこの小さな声をまったく聞きとれないものに再びなってしまわないように、その存在によって灯りをともし続けることだ。
いま、国内的にも国際的にも、戦争への巨大な意志が荒れ狂っていると思えるこの時に、私たちが、これまで実際にはまともに実現を目指したことすらないこの最低限の務めを、「事情が変ったから」と言って自ら取り下げてしまうことは、過去のすべての犠牲者と、現在の隣人たちに対する決定的な裏切りであり、のみならず、未来を担うであろう他者たちに対する背信でもあるだろう。
憲法9条は、私たちが「人間」としてこの世界につながっていくための、代替できない希望の環のようなものだと思う。