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「ファシズムとは、現実のユートピア化である」(久野収)

2017-07-13

[][]『ヴィルヘルム・テル


岩波文庫の『花田清輝評論集』を読んでたら、花田がシラーの『ヴィルヘルム・テル』(1804年)を絶賛していた(「林檎に関する一考察」)ので、やはり岩波文庫の古い訳だが読んでみた。

たしかに深みのある、すごい戯曲だ。


この作品は、オーストリアのハプスブルグ家の圧政に対して立ち上がり、民衆国家の独立をかちとったスイスの人たちの群衆劇と、伝説上の人物といってよいテルという自由人的な個人の内面の葛藤とを、二重写しに描いてるような不思議な内容だ。

テルは、人望が厚く、周囲の民衆から「独立運動のリーダーは、彼しかない」と信頼されているほどの男であり、また彼の宿敵である悪代官(ほとんど独裁者と言ってもよい)ゲスラーも、そのようにテルを見て警戒している。

ところが本人は、独立とか革命といった集団的・組織的な動きには、どこか馴染まないところがあり、山中のある場所で行われた決起のための秘密集会にも、あえて参加を拒むほどだ。ただし、事が決まったら必ず一緒に戦うから、是非教えてくれと念を押すのである。

だがここで、テルは自由を愛する個人主義者なのか、集団のために身を捧げるタイプの人間なのかと区分けしてしまうと、この劇の本質を見失うような気がする。

最後まで読んでいくと分かるのだが、テルの行動は、個人の情念や欲望にもとづくもの(復讐のような)とも、また独立や革命のような集団的な、大文字の「政治」の論理や理念とも、いずれとも異なった特異な動機によるものとして描かれている。

それがどういうものか言い表すのは難しいが、テルの気質、同時にシラーの思想をよくあらわしてると思うのは、息子ヴァルターとの次のようなやりとりだ。

(なお、岩波文庫の原文では、詩劇であるシラーの原作に合わせて台詞を細かく行分けしてあるのだが、それだとあまりに長くなるので、ここでは全てベタで書き写すことにした。ご了承されたい。)

ヴァルター  (一寸思案して)父ちゃん、どっか山のない国ってあるかい。

テル この山手の高地から下の方へ下りて、川についてくだって行くと、広い、平らな国へ出るんだよ。そこはもうざわざわ泡だつ谷川なんかなくって、大きな川がゆったりと落ちついて流れているよ。何しろ東西南北、眼をさえぎる山はなし、国を見れば、まるで花園のようだよ。

ヴァルター そうかい、父ちゃん、それじゃ僕たちなぜ早く、その立派な国へ下りて行かないのかい。こういうところで心配や、苦労なんかしているより。

テル 土地は立派で豊かで天国のようだが、しかし、そこを耕やす人たちはな、作った穀物を食べるわけに行かないんだよ。

ヴァルター その人たちは、父ちゃんのように自分の土地に住めないのかい。

テル 畑は僧正や王様のものになっているのよ。

ヴァルター でも、猟は森で自由にやれるだろう。

テル 鳥でも獣でもみんなお上のものさ。

ヴァルター でも、魚は自由にとってもいいだろうね。

テル 川でも海でも、塩までも王様のものだ。

ヴァルター それじゃ、みんながこわがる王様ってどんな人かしら。

テル みんなをまもって養ってござる御一人だ。

ヴァルター みんな元気でお互に護(まも)り合うことは出来ないのかい。

テル そこでは隣のひと同志信用が出来ないのだよ。

つまり、同志との信頼や連帯こそが、権力(王様)から「自由」を守る唯一の拠り所だ、ということだろう(自由な民衆の国スイスは、そのようにして成立したというのが、一つの神話だろう)。

しかし、同時に、そうした連帯に価値があるのは、それが「自由」という危険と苦悩に満ちた大切なものを保障するからこそであって、その「目的」が忘れられれば、連帯は単なる権力に変質してしまう。

では、個人とも集団ともずれている、その「自由」とはいったいどういうものか。

シラーが、この戯曲で描こうとしたのは、そのへんのことではないかと思う。


さて、『ヴィルヘルム・テル』といえば誰でも、息子の頭に乗せたリンゴを、テルが弓矢で射落とす、あの挿話を思い浮かべるだろう。

だが、実はこの劇には、ここ以外にもう一つ、テルが矢を射る場面が出てくる。それは、テルに息子の頭の上のリンゴを射ることを命じたゲスラーを、後になってテルが射殺す場面である。

そして、息子の頭の上のリンゴを射落としてみろとゲスラーに命じられてテルが懊悩する場面でも、そのゲスラーを暗殺する場面でも、テルの内面の葛藤を描くシラーの筆は迫真性に満ちている。テルが息子の頭の上のリンゴを射落とすあの場面は、決してテルが余裕綽々に悪代官の鼻を明かしたなどということではなく、息子を射殺すかもしれない恐ろしい選択をすることを、悪辣な権力によって強いられた、弱い者のぎりぎりの苦悩を描いたものなのだ。

強いられたこととはいえ、そして、結果的にはそれをどうにか(幸運にも)切り抜けたとはいえ、この恐ろしい経験をしたことで、テルの内面はすっかり変わってしまう。

ゲスラーを殺すことを心に決めたテルは、こう独白する。

おれはおだやかに悪事もせずに生きて来た。弓矢を射向けたのはただ森の中の獣だけで、人を殺すなどという考は夢にももたなかったのだ。手前というやつが、おれを平和の中からおい出して、おれのやさしい人情の乳を、煮えたぎる大蛇の毒にかえてしまったのだ。滅相なことをするように、手前がおれをならしたのだ。わが子の頭を的にしたような人間なればこそ、かたきの心臓に射あてることが出来るんだ。(p165〜166)

ところが、かわいい坊やたち、今という今も、お前たちのことばかり考えている。―お前たちの体を護り、お前たちの優しい無垢な心を、暴君の復讐から防いでやるために、いよいよ、人殺しとなって弓を引きしぼろうというのだ。(p169)


ところで、この戯曲でもう一つ印象的なのは、シラーの描く女性像である。

それは一口に言って、権力者や、強者・抑圧者である男たち(テルをも含む)が共通してもっている観念性、たとえば大文字の政治とか、暴力性とか、投機的な欲望などに共通する観念的な思考を鋭く告発する、被抑圧者、民衆的なものの代表としての女性たちの姿だ。

まず、テルの妻のヘートヴィヒである。リンゴを射落として息子の命を失わずにすんだテルだったが、彼を恐れるゲスラーによって捕われの身となり、息子のヴァルターだけが村人たちの元に帰ってくる。知らせを聞いてそこにやってきたヘートヴィヒだが、もともと冒険心や義侠心の強さゆえに危険をかえりみないテルの性格に漠然とした不安と不満を抱いていた彼女は、自分の忠告を聞かずに行動したうえ、強いられてのこととはいえ我が子に向かって矢を射るという行為をしたテルを許すことができず、不在の夫への怒りをぶちまける。

さらにその怒りは、おそるおそるテルを弁護しようとした別の男にも向けられる。彼は以前に、テルの献身的行動によって追っ手から命を救われたことのある男である。

(ヘートヴィヒ) お前さんたちは友だちの難儀に涙を流すだけなの。あの感心な人が縄を打たれた時、あなたがたはまあどこにいたんです。どこをどう助けたんです。そんなむごたらしいことを見ていて、するがままにしておいたんでしょう。みすみす自分たちの中から友だちがめしとられて行くのに、よくも辛抱していたもんですね。あのテルもあなたがたにそうして上げましたか。お前さんのあとから代官の家来どもが追っかけて来て、お前さんの行手には荒れくるうた湖水がたけりほえていたとき、あの人は気のどくがって突っ立ていただけですか。あれはそら涙をこぼして泣きごとなどをいわず、女房や子供のことを忘れて舟へ飛び込んで、お前さんを助けて上げたんでしょう。(p151〜152)

責められている側が気の毒になるほどの言われようだが、たしかに物事の実相を的確に言い当てている。この告発の射程は、「個」を道具や犠牲にすることで生き延びていく組織的な政治の論理(メカニズム)にまで届いているのだ。「男同士」では、こういう真実が語られることは珍しいのであり、彼女の怒りは、その共犯性に向けられているのだとも言える。

ヘートヴィヒばかりではない。ゲスラーがテルの放った矢で絶命する直前の場面で、馬に乗ったゲスラーの前に躍り出て、この悪代官の暴政によって苦難に陥っている夫を救ってくれと捨て身の直談判をするアルムガルトという農婦の迫力も凄まじい。

花田清輝は、冒頭でふれたエッセイのなかで、シラーはこの独裁者的な悪代官を『外部の世界に眼をそそいでいるようにみえるにせよ、実は内部の世界から一歩も出ようとしない、小心翼々たる超現実主義者として描きだし』ていると称賛しているが、まったく独裁的な政治家というものは昔も今もそういうものだろうが、その小心翼々たる悪代官ゲスラーの前に、アルムガルトは民衆の怒りや嘆きという「現実」を強烈に突きつけるのだ。

普段は、お付きの家来たちに囲まれることでその「現実」を見ずにすませているゲスラーだが、この時はある事情から家来たちが居らず、彼は自らそれと直面せざるをえなくなる。そこで示される動揺の様子に、すでに独裁者の死(失墜)が予告されているのである。

 そして、それに続くゲスラーの末期の台詞もなかなか振るっている。

ゲスラー あちらへやれ。無礼なやつを目の前から追い払え。

 アルムガルト (馬の手綱をつかむ)いえ、いえ、なくそうにも、もう何ものもございません。もうしお代官様、正しい御処置のあるまでは、この場はちょっとも動かし申しません。額にしわをおよせになろうが、眼をおむきになろうが、御勝手です。私どもはもう底しらずの不仕合せですから、ご立腹ぐらいは何ともございません。―

 

 ゲスラー これ、女。どけ。さもなくば馬に踏ませて通るぞ。

 

 アルムガルト さあ、馬に踏ませてお通り下さい、さあ。―

(彼女は子供を大地に引きたおして自分も一所に道へ身を投げる。)

 私はここに子供と一所にねています。―このあわれな孤児たちを馬の蹄で踏み殺すがいい、お前さんはもっとむごいことをしていなさる。

 ルードルフ これ、女、お前は気が狂うたか。

 

 アルムガルト (更に激しく言葉をつづける)本当にお前さんは、とうに皇帝の国を自分の足で踏みつけなすった。―おお、私はただの女です、もし男であったらこんなほこりの中にねころぶよりは、もっと気のきいたことをするだろうに。―

    (先の音楽が道の高みからきこえて来る。しかし陰にこもった音色だ。)

 ゲスラー 家来どもはどこにいるのだ。この女をここから引きずって行け。でないと、わしはわれを忘れて、悔いるようなことをしかねない。

 ルードルフ 家来どもは通りぬけることが出来ません、代官様。そば道は婚礼の行列でふさがっているので。

 ゲスラー わしはこの国の人民に対して、まだ甘すぎる支配者だ。―やつらの舌はまだ自由に動き、万事まだあるべきようになっていない。だが誓ってこのままにしておいてはならぬ。わしは、あいつを、あの剛情な心をたたきこわすのだ。あの厚かましいわがままな精神をまげてやるのだ。国じゅうすっかり新規な法律を布いてやるのだ。―わしは又―

   (矢が飛んで来て彼を貫通する。彼は手を胸にあて、たおれ落ちようとする。弱い声で)

 やっ、しまった。

                          (p176〜178)

付け加えると、ゲスラーの腹心の部下であるルードルフは、この親分の死の後、猛狂う民衆の様子を目にして、『これほどまでになっていたのか。恐怖も恭順もこんなに早くなくなるのか。』(p181)という絶句を残して、ほうほうのていで逃げうせる。

この極度の混乱状況が、歴史的にはスイスの独立へとつながるわけだが、そういう大文字のドラマに対して、常に一定の距離を置く(しかない)一人の男として、シラーはヴィルヘルム・テルを描こうとしたのだと思えるのである。

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