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2012-02-05

ブログに何を書くかという話

撮った写真Twitter投稿しましたが、お店の名前ツイートしませんでした。

もし店名をツイートしたら宣伝と受け取られ、ステマ乙とか言われる可能性もあるなぁとそう思ったので。


思うのですよね。

ネットにどこまで書いていいものなのかなぁと。

ネット。どこまで書いていいものなんだろう。 - かみんぐあうとっ

 私は『良いと思ったものについては固有名詞を出しても言う、イケてないと思ったもの固有名詞を出さない』という方針をとっています*1

 ステマステマだと冗談でもなく本気で言う人というのは、実際に少なからず居ると思います。ですが単純な話、そういう人にどう思われたって構わないんですよ。そういう人が私の人生に影響を与えてくることはまずないです。与えてきたとして、排斥する方向で動いて構わない人物です。

 信じて試してみてダメだったじゃないか! と思う人もいるかも知れません。それは確かに残念なことですが、そこまでは責任持てません。どっちかというと、見ず知らずの顔も知らない人物の評価を見てそれを全部だと思うのが過剰じゃあないでしょうか。

 どちらかと言うと、ちゃんと自分で判断できる人に「こういう物もありますよ、私は良い物だと思いました」と情報提供できればそれでいいかな、と考えます。そこから先は受け取り手の主観の問題なので、私にはどうこう出来る話ではありませんし。「あれはステマだ、店もグルなんだ!」と言い出す人も居るかも知れないけれど、そんなアホはリスクとして無視していいくらい極小だと思います



 逆のイケてないものに関しては純粋に営業妨害になる可能性もありますので、固有名詞は出しません。

 先ほどまでの理屈であれば「見ず知らずの人がダメと言うだけで、それを鵜呑みにしてダメだと思いこむのがアホだ」ということになるんですけど。

 そこんところについては、こう考えています。『良い物評価』の方だと鵜呑みにした人が居たとしても失敗するのはその人だけ。だから鵜呑みにした人の責任鵜呑みにした人が失敗するだけ。『イケてない評価』の方だと、評価された人まで迷惑を被ってしまう。そこが違う、と。

 世の中には「こんなダメものがあってみんな引っかかるなよ!」と飲食店サービスの評価をする人が居て、実に正義感が強いものだなと思います。が、私はそこまで自分価値観やら感覚を信用していませんし、それに則って正義が執行されるべきとも思わない。

 そういう観点から、『良いと思ったものについては固有名詞を出しても言う、イケてないと思ったもの固有名詞を出さない』としています

 この方針が正しいのか間違っているのかも解りませんが、ここは個人ブログですのでね。それくらい自由にやっていいんじゃあないか、そんな風に思うのです。


inspired ネット。どこまで書いていいものなんだろう。 - かみんぐあうとっ

*1:もちろん、イケてないと思う"部分がある"ものに関しては名前を出すこともあります。すべてが完全ということはないですので。こういう良い部分があります、イケてない部分もあります、その上で総合的に良いと判断しました、という話のほうが説得力情報性があると考えます

2012-01-30

私が思う『プログラマーに必要な能力』とは何かを語りたい

 先程、私が思う『良いプログラマー』とは何かを語りました。

 今度は、私が思う『プログラマーに必要な2つの能力』について語っておきたいと思います

 その前に、プログラムとはそもそも何なのか、ということなんですけれども。私は大雑把に、プログラミングとは「名前を付けること」と「構造を作ること」の組み合わせでできていると考えています漢字で言うと、命名と構成でも言いましょうか。

 単純な話、変数を宣言して『命名』し、『命名』した変数を『構成』して処理を作り、その処理に『命名』してメソッド関数と呼ばれるものにする。関数メソッドを『構成』してクラスモジュールとし、それらに『命名』してひとつのパッケージにしていく。これが、プログラミングの本筋のところ。

 ですから「良い構造を作れること」「的確な名前を付けられること」。これらがプログラマーに必要な2つの能力だと考えています


 「良い構成」とは何かというと、これは既に偉大な先人たちがデザインパターンのような情報として残してくれています。「的確な名前」とは何かとなると、こちらはあまり共有されていないように思います。最低限のコーディングルールなどはありますから、流石にフラグ名に〜〜flgとか付けてしまう人はもうこの世には存在しないとは思いますけれど。前者は割と勉強している人も多いですし、大事だという認識も高いはず。ですが、後者はあまり意識されていない。でも本当はどちらも大事です。

 命名が大事であることに関して、私は2つの理由を持っています

  1. 名前が的確でないものは他人に理解されない(バグの温床)
  2. 名前を的確に付けられないものはその存在に誤りがある可能性が高いが、命名が適当な人はそのことに気付きづらい(構成の誤りに気付けない)

 1つ目は先ほどまでのエントリーでも触れました。2つ目は、解りづらいかもしれません。

 具体的に言いますメソッド名前を付けることになったとき、そのメソッドに的確な名前を付けるには「そのメソッドはどういう役割を担っているか・処理をおこなうか」を把握してなければなりません。そうでなければ正しい名前を付けることは出来ませんからね。ですが、命名が適当な人・やらない人はここがおざなりになります。そうするとどうなるか。例えば、1つのメソッドの中でおこなうべきではない処理までおこなっていることに気付けなくなるのです。しっかりと命名を意識して力を付けている人は、こういうことに気付きやすい。なぜなら、そういう『怪しいコード』には名前を付けることがとても難しいからです。そしてそういう場合、構成に誤りがあると考えて修正することが出来ます変数名やクラス名、モジュール名、すべてそうです。

 どうでしょう、命名の大事さ、伝わるでしょうか。

 これからプログラマーとしてやっていくという新人の方には、構成だけでなく命名についても意識して学んで欲しいと思います

私が思う『良いプログラマー』とは何かを語りたい

 先ほどのエントリーにも関連する、というかそこから導出されるおまけエントリーです。

 私が思う良いプログラマーに最低限必要なモノはこの3つです。

  1. 的確なコメントをつけられる日本語
  2. 自分自身を疑い、自分以外が自分の書いたコードを見た場合想像するだけの視点
  3. ド・モルガンの法則等、基本情報処理者レベルの知識

 なぜこういうことをわざわざ書くかというと、このような超当たり前とも言えることを考慮せず、オブジェクト指向リファクタリングデザインパターン適用といった目先の器用な技術にばかり傾倒する人をたくさん見てきたからです。結果生み出されるのは、微妙に読みづらいトリッキーコードばかりです。

 メンテナンスコストは開発時には馬鹿にならないものです。二次開発で既存コードが読めなくて読解に四苦八苦してる時間の為に実際の開発が遅れて終電徹夜コースなんてこともあるでしょう。

 誰かが生み出すそのコードの、生みの親である誰かにならないように意識できる人が、私にとっては良いプログラマーです。


私が思う『良いコード』とは何かを語りたい

 久しぶりにシステムエンジニアっぽい話題。

 良いコードというのはケース・バイ・ケースであり案件によって異なるものですので、あくまで『私が思う良いコード』についてです。

 私がコードに対して持ってる座右の銘は、これです。

動く汚いコードより、動かない綺麗なコード

 動く汚いコードトラブルが発生して動かなくなったときに「なぜ動かないか」が解らず修正が困難ですが、動かない綺麗なコードは誰かが動くように直せば動き、修正が簡単です。故に、トラブルが発生したときメンテナンス工数に差が出ますトラブルは必ず発生するものですからね。動く汚いコードを綺麗にするには多大なるコストが掛かりますが、動かない綺麗なコードを動くようにするのはそれほど難しいことではないでしょう。一切トラブルも追加開発も発生しないと仮定するならば動く汚いコードでも問題ありませんが、果たしてそんなことがありうるでしょうか? むしろ、トラブルは起こらないと仮定して開発することに無理があります。よって、動かない綺麗なコードの方が価値がある、と考えています。それはつまり、綺麗であることに大きな価値があるということです。

 こう書くと、では綺麗なコードとは何かという話になると思うのですが、綺麗なコードとは「読んで狙いが解るコード」です。*1

 逆に、開発中のみならず、後々メンテナンスしているときにも一番困るのは、『そのコードが何を実現したいコードなのかが解らない』ことです。これ、なんの為に書いてあるの? この条件文は何のために必要なの? というコードです。

 単純な話、実装は設計で決められたことをコードに落とし込む作業ですので、コードの内容や実現したいものはそれ以前のフェーズドキュメントに含まれています。ですので、そういうことは明確でなくて良いでしょう*2

 明確にすべきは、実装の都合上で変則的に書かざるを得なくなった場合など、実装者しか知りえない情報です。本来は、そういう場合コードを「誰が読んでも意味が通るように修正する」のがまず第一なのですが、それすら難しいと「なぜそのように書いたか」のコメントが必要です。

 良くあるパターンですが、読むだけで明確なことにコメントが付いていて不可解な部分についてはノーコメント、というのもあります。下記の例は、読むだけで明確なことにコメントが付いている例です。

	// トランザクションを接続文字列を使って作成
	Transaction tran = new Transaction(connectionString);
	
	// トランザクションを開始
	tran.Begin();
	
	// アダプターを作成
	Adapter adapter = new Adapter(tran);
	
	// リーダーを作成する
	DataReader dr = adapter.GetReader(sqlCommand);
	
        // データコンテナを宣言
        Hoge hoge = new Hoge();
	while (dr.Read())
	{
		// データを読み込む
                hoge.Add(dr["fuga"]);
	}
	
	// リーダーを破棄
	dr.Dispose();
	
	// アダプターを破棄
	adapter.Dispose();
	
	// トランザクションを破棄
	tran.Dispose()

	// 取得した値を返す
	return hogehoge;

 うん、読めば解ることですので、コメント要らないですね。上記のようなコメントは、一行たりとも要らないと私は考えています。こういうのは、(ある程度読める人なら)コードを見ただけで判断付くことです。であれば伝える必要はありません。

 こういう、冗長なコメントが多いと、本当に必要なコメントが埋もれます場合によってはこのような冗長なコメントばかりで、必要なコメントが無いことのほうが多い。これはなぜかというと、多くの人が特にコメント意味意識しないで書いているからだと考えています


 私がコードを書くときレビューするとき意識するのは、以下の3点です。

  1. 実装者以外の人間が読んで狙いを理解することができるか?
  2. 狙いを理解できない場合、そのコードを読みやすく単純化することができるか?
  3. 単純化することができない場合、的確なコメントをつける

 これらは超基本的なことであり、最低限満たすべきものだと考えています。これらの基本が解決できたところで、リファクタリングを始めます

 オブジェクト指向、便利ですね。リファクタリング、素晴らしいです。凝集度を上げて結合度を下げるクラス設計、サイクロマティック複雑度が限りなく低い構造、などなど……。考えればきりがないほど「やるべき基本的なこと」はあります。が、それより前に、もっと超基本的なこととして上記のようなことを実装者とレビュアー意識するべきだと考えています

 読み間違いは書き手の粗相。メンテナンスが必要以上に難しいコードは、実装者の責任殆どです。読めない人間を責めるのは難しい。もちろん、言語についての不理解ゆえに読めないのだとしたら、それは読む人間の読解力の問題ですけれどね。コードはみんなの共有物、自分だけが読めたらいいなんてもし思ってる人がいたら、その考えはすぐに捨てて欲しいと思います。だいたい、自分で書いたコードだって半年もしたら意味を忘れてしまいますよ。そんなもんです。

 実装の時には時間が無くて、という意見はごもっともではありますし痛いくらい解るのですが、では最初から読みやすくなるよう工夫できないか考えるのが良いです。後から手を入れるときにもです。書くときに「これって後から読んだ人が解るのか?」と自分の書いたコードに対して検証をし続けることです。それを、強く意識しなくても読みやすく書けるよう手癖にするのが肝要だと考えています。忙しいときコードが汚くなるのは、忙しいからではなく、忙しいことで実装者が焦るからです。これはある程度仕方ないこと。であれば、焦っても大丈夫なように手癖にするのです。手癖になっていれば、後から修正するコスト結構減らせるものです。後々で効いてくるのはこういうことだったりします


 最後に、最低限これだけは読んどけ、という本を一冊挙げておきます新人には、この本の第一章だけでも読んでおいて欲しいです。デザインパターンコードコンプリート、インサイド○○なんかよりも断然こっちが先です。

inspired 職業プログラマになって考えた「良いコード」とは? - seri::Programing Diary

*1:そのために、シンプルかつよく使われるイディオムであったり、デザインパターンを使うわけです。デザインパターンを使うことの最大のメリットは、実際にコードを書いた人とそれ以外の人とで、コードの狙いを共有できることですもちろん、そのためには全員にデザインパターンが周知されている必要があり、そうでない場所ではデザインパターンを使うことは必ずしも良いとされない場合もあります。ケース・バイ・ケースだという理由のひとつです。

*2:もちろん、ドキュメントコードは常には合致していませんけれど。それはそれでまた別の問題ですから、ここで語るべきではないと考えます

2012-01-17

娯楽系産業に対して矛盾した言動をとる人に対しての雑記

 自分の周りでだけでしょうか、どこからか入手した電子データ化されたアニメ漫画音楽の量を自慢する人をよく観ます。ここ最近、頓に増えてるように感じます。それも、社会人で。

 何らかの方法によってどうやら対価を支払わずに得たらしいデータ。その方法は解りませんし特定できませんしするつもりもありません。ただ……それ、本当に観るんですか?


 素朴な疑問なんですけど……観ないよね? 凄まじい量が蓄積されてるというデータ。交換する時にテラ単位ハードディスクをまるごと使うというデータ再生時間計算するのも面倒なくらいです。どうやら話によると、何を持っているのかすら解らないんだとか。

 そういう人らが何故収集するのか? これについては、私は2つ理由があると推測してますひとつは「交換資材として、通貨のように保持している」。もうひとつは「単に持ってるのが嬉しいから」。どうでしょうか? 自信はいひとつありません。実際のところが少し知りたいです。



 閑話休題。話が少しずれてしまいました。ここからが本題です。

 上記のようなシチュエーションはどんどん増えてますカジュアルコピーする。HDDが安くなってるとか、デジタルコピーしやすくなったとか、インターネットの速度が尋常じゃなく速くなってきているとか、色々と理由はあるんだと思うんですけれど。

 となるとですよ。企業側、クリエイター側の姿勢は「儲けてなんぼ」になりますよね。そらアニメなんかどれもこれも萌えとかになりますよ。ラノベが売れればラノベ推し。アニメパチンコタイアップするでしょう。それができない、売れない作品やジャンルは作れなくなる。作る余裕が無い。幾ら作りこんだとても良いものだとしても。だからどんどん品質は薄っぺらくなり「どのアニメ観てもだいたいおんなじ」とかいうことになっていき、全体的に商業主義に陥ったようになっていきます。逆に、売れないけれど良いものを作る、みたいな人はどんどん淘汰されてしまうか、世に出てこれない。こんな感じでしょう。今の娯楽産業*1


 私が言いたいのは、著作権違反は良くないから止めろだとか悪だとか、そういうことではありません。そもそも親告罪ですから、著作者当人以外が口を挟むのはお門違いでしょうから。そういうことじゃあないんです。

 少なくとも、特に社会人であるなら、自分が好きで楽しませてもらってることに対してくらいは、対価を支払うようにしてはどうでしょうか? そしてその支払いを『消費』ではなく『投資』だと考えるようにしてはどうでしょう? と、いうことなんです。じゃあないと、自分面白いと思うようなものを生み出す人が、企業が、どんどん潰れますよ。だって、作ってもお金入ってこないんですもの

 一定以上の稼ぎがあるのにそんな目先のつまらない小銭に囚われて、将来生まれるかも知れない良娯楽をの種を潰してしまってるんだとしたら、勿体無いことだと思うのですが、いかがでしょうか。

*1:このようなことはとかく批判されがちではありますが、じゃあその批判してる人がしっかりお金を出しているかとなると、これは疑問だったりしますお金は出さないのには批判するとか、どうにもおかしいと私は感じます。例えるなら、誰かが植えた木の実を食べるばかりで、自分たちは種も植えず耕しもせず、木の実の質について語るような。そんなことですよ。

2012-01-15

経営者が自己啓発本を勧めているのを観るとげんなりする

 今まで関与してきた中小企業経営者層が自己啓発本好きで、これまで何冊かの自己啓発本を勧められ読みました。自己啓発書と銘打たれていなくても、大企業経営者成功哲学なども。

 そこで思うのは、ああいうのは総じて「成功した人の方針の抽出物」なんですね。薬みたいなもので、合う人には合うけれど合わない場合は害になる。


 例えば「行動すれば成功する」などの場合

 当たり前のことですが、10回同じ事をやって10回とも同じように失敗するなら、あともう10回同じ事をやってもやっぱりもう10回失敗しますよ。もちろん時流というものはありますから、もしかしたら成功するかも、というのはあるかも知れませんが、可能性としては低いでしょう。そこで自己啓発が言うのは「失敗する率が低くても何万回もやったらそのうち成功するだろ」ということであり「失敗は気にするな」なんですよね。

 失敗を恐れない気持ちは大事で、時に思い切る必要はあるのですが、失敗すると思われることをやるのは愚か者のすることです。何か行動するからには成功するという勝算が必要で、勝算があるからこそ失敗への恐れを越えられる。そしてその勝算を生むものが機転であり知識であり観察であるわけです。

 例えば、男性向けモテ*1にあるような「ナンパするのに1人に声を掛けても失敗するけれど1,000人に声を掛ければ1人は引っかかるぞ!」というのは典型ですね。それを信じた人がいて、1,000人に声を掛けたとしますよね。でもその声を掛ける人が圧倒的キモメンでトークスキルゼロならまず1人も見向きもしないでしょう。ただただ凹むだけ。むしろ女性に対して脅威を与えるだけです。誰も得しない。

 人生麻雀に例えると*2、みんなそれぞれ配牌は違うしツモも違う。生まれながらにして悪配牌でスタートしなければならない人も居れば、ツモが悪くて苦心する人だってます自己啓発本が良く語るのは「ツモって切らなければ上がれない」なんですね。そらそうです、そうしないと手が進まない。でも、幾らツモって切っても、考えずにツモ切りしてちゃ永久に手は進まない。それに流局が来てしまうことだってあるし、誰かに出し抜かれることだってある。場を見て、積極的に打ちながらも、逃げる場所や勝負をかけるところを見据えないと行けない。自己啓発本が語ることだけをそのままやっていたら、ツモる→当たることを恐れるな→ひたすらツモれば上がれる→上がれないのは自分の気持が足りないから、となる。そんな人はただのツモ切りマシーンです。

 ただひとつ「行動すれば成功する」を抜粋しただけでも、こう。

 他の要素も、たいてい似た感じだと思います抽出した内容を摂取してるからそれで事足りるような思考停止に陥ってしまうという副作用が起こるというのはどれも同じ。決して間違っていることは言ってないですけれど、常に正しい訳でもなんでもない。読んで勇気づけられるくらいにしておきましょう。


 自己啓発本にハマっている人には、もっと社会を見て自分で考えて、逃げるべき時を見極めて、ダメだった時はダメな理由を考えて消化して、落ち目の時には自分を救うようにして、自己啓発本を疑い、それでいて自分責任を持つことを勧めます自己啓発本責任を取ってくれません。合う合わないもあります。そして勧める側はたいていその注意はしてくれません。

 自己啓発本劇物です。用法用量を守って正しくお使いになり、体に合わない場合は使用を中止してください。また、貴方に適合した本が他の人に適合するとも限りません。お勧めになる際にはご注意ください。

*1自己啓発本とは違うかも知れませんが、ニュアンスが似てるので引用ます

*2人生を何かに例えるのは詐術っぽくてあんまり好きではないのですが。

2012-01-10

ワナビに贈るたったひとつのアドバイス

 何かひとつ作品を創り上げて公開し衆目に晒そう

 もし貴方が芸術的もしくは文学的なジャンルにおいてクリエイターを志望しているのであれば、まず何かひとつ作品として創り上げてみることをお勧めます

 単純なもの小作品で構いません。ひとつ何かを創り上げると言うのは、これは大変な力と労力が必要です。どんな小さなものであっても。

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2012-01-07

若いうちの苦労は売ってでもするな

 ここでいう『苦労』というのは、何の目的意識もなく苦役をすること。

 目的意識を持ってやることからは得るものがありますが、ただ漫然と「つらいなあ、苦しいなあ」と思いながらやることから得られることと言うのはそんなに多くありません。時間の使い方としてあまり有意義じゃあないです。

 更に、苦労を重ねることで「苦労をしなければならない」という苦労教に入信してしまう人も居ます。苦労教の教義は「苦労=経験」で、苦労を重ねることで何かを得る、という考え方です。こじらせると「若者が売れるもの時間しか無いのだから時間を売って経験を得よ」という悟りに到達します。やがて苦労教徒は若い人に苦労を押し付けるようになります。それこそが正しいことだと思っていますからね。

 実際には苦労教徒が言うようなことはありません。効率よく学ぶことも得ることも与えることも出来ます。社会を見回してみれば、これまで先人が積み重ねてきた労力や成果が生活の下地になっていることは解ります。それを使えば良いんです。経験は動かした手先と見た出来事を、その身を通して考えるから得られるものです。漫然とただ苦労してれば得られるようなものでは有りません。

 こういう話の定型句ではありますが、若い人に知っておいて欲しいのは、「苦労ではなく経験を得ること」を大事にして欲しいということです。その為には苦労を売ってでも手放して経験する為に時間を遣うこと*1

 歳を取るほどに経験を得る密度や濃度は下がって行っているように思います。若いうちに経験するって大事ですよ。

*1:苦労を売るのが難しいなら、苦労を「強いられた苦役」とするのではなく「意義ある経験」と変化させることですが、それって若い人のすることじゃなくて既に経てきた人たちが環境を作ってやることなんですよね。おっさんは若い人にそういう場を作っていくのが大事仕事になると考えます。

2012-01-05

新年のごあいさつ in 2012

 がしょーん!


 というわけで賀正と掛けたハイクオリティギャグが決まりましたところで、あけましておめでとうございます2012年も何時の間にやらはじまりましたね。

 当ブログ、早く飽きて畳んでしまうだろうと思って緩くやって参りましたが、どういうことか2012年を迎えてしまいました。続くものですね。続けるような努力はしてきたつもりはありませんが、終わらせようという努力もしてませんでしたし、それが功を奏しました。

 2011年は色々とありました。私事、というか当ブログ事ですが、No Border参加(とそれに紐付いてアルファーブロガーな人々とのオフ会参加)、Twitterを通じて知り合った数名の方との対面での対話、BLOGOSに何故か*1転載されるようになりその流れからBLOGOSアワード表彰式の閲覧、などなど、色々ございました。たいへん面白いものです。ブログを始めるまではこういう展開になるとは思っていませんでしたし、去年頭ですら想像もしていませんでした。

 今年はどういうことが起こるのか、楽しみにしております

 毒にはなれども薬にはならないブログではございますが、本年もご愛顧いただけたらという所存でございます

 本年もどうぞよろしくお願いします

*1:未だに理由は解っていません。

2011-12-29

今年買ったヒット商品(自転車装備編)

 私は自転車が好きで自転車通勤もしているのですが、その為に今年ゲットしたグッズを振り返りたいと思います*1

 ウェア系はまた別に書きますので、ここは自転車に装備する装備品を。

ライト】バイクランプ A2 ブラック / Dosun(ドゥサン)

 実売で10,000円弱とかなり高いですが、効果はてきめんです。とにかく明るい。

 照射方向は真正面からやや下方向となっています。前方から来る人・対向車に配慮していると言えるでしょう。相当明るいので、場合によっては目潰しとなってしまいかねないのですが、その辺はクリアーされていると言えます

 ひとつ気になるのは、本体が重いからなのか上下に振れやすいということ。しっかり締め付ければある程度マシにはなりますが、それでもたまにズレる。それが惜しいところです。

 街頭のある街中を走るにはまったく不要なくらい明るいですが、光の量が少ない場所を走るときはとてもありがたい存在です。

 ライトのあるなし、良し悪しは事故率に影響してきます。こんなバカ高いものでなくてもいいので、最低限、自分の居場所を示せるだけの物を付けるようにしましょう。

Dosun(ドゥサン) バイクランプ A2 ブラック

Dosun(ドゥサン) バイクランプ A2 ブラック

タイヤ】ツアラー / Panaracer

 Giant EscapeR3の標準タイヤからの履き替えです。

 元々使っていたタイヤがだいぶ割れてきてバーストしそうになっていたこともあって、交換しました。

 他に候補として『マラソン/シュワルベ』『ツーキニスト/パナレーサー』なども候補に上がりましたが、全体のバランスでツアラーに。

 履き替え前後での比較ですが、タイヤの重さによる変化はあまり感じられませんでした。ツアラー自体がそこまで軽いものではないので、変化はないのでしょう。それより、乗り味が柔らかくなったことがとても良かったです。標準タイヤではかなり乗り味が硬かったのが、ツアラーだとちゃんとゴムに乗ってる柔らかさとなりました。空気圧をちょっと緩めに入れてるというのもありますけれども。

 乗りやすくなった上でパンクリスクが軽減されたというのがとても良いです。自転車通勤だと、通勤中のパンクがとても怖いものですから

iPhoneケース】ドライバッグ / TOPIAK(トピーク)

 運転中に外れたらヤバくないか? と思いつつも導入。iPodTouchも古くなってきて、最悪壊れてもいいやと思えたので。で、導入してみてですが、予想以上に便利です。

 従来は知らない場所に行くときにiPodTouchのマップ機能やナビアプリを使って場所確認していたのですが、それだと停止するたびにポケットから取り出して確認して……と結構面倒だったりします。取り出しやすいようにポケットに入れてるから汗で濡れたり、止まらなくていい場所で止まったり。そういった不便は解消されました。

 画像では解りにくいですが、ちょっとした防水パックのようなものに入れるようになっています。ですので雨に降られてもある程度は大丈夫。ケースの上から操作できますし、特に不便はありません。

 ただまあ繰り返しになりますが、ブラケットプラスティックなのはちょっと怖いですね。大きな段差を乗り越えない限りは大丈夫だと思いますけれども*2

トピーク iPhoneドライバッグ

トピーク iPhoneドライバッグ

空気入れ】ジョーブロースポーツ2 / TOPEAK(トピーク)

 それまでは空気を入れるのに近所の自転車屋さんを利用していたのですが、通勤に使おうと思うとやはり週1回ペースくらいで空気圧チェックしておきたいと思い購入。

 と言うわけで、空気圧チェックしつつ空気を入れられるタイプで、ロードバイク対応したもの、ということで選択。軽い力で空気を入れられるので、概ね満足です。週1回ペースで使ってみて解りましたが、やはり空気が抜ける速度はかなり早いですね。特に夏場。昼夜で空気の体積が変わるからでしょうか。

TOPEAK(トピーク)ジョーブロースポーツ2 PPF05000

TOPEAK(トピーク)ジョーブロースポーツ2 PPF05000

とまあ

 こんな感じで装備を買って見ました。

 去年購入したグッズは今回は書いていません。書いては居ませんが、自転車通勤するのであればサドルバッグ・ヘルメット・泥よけは上記以外に必要となるでしょう。

 お金を掛けたからいいもの、というわけではありませんが、やはりちゃんと装備を整えておくと便利なものですね。

*1:というテイのアフィリエイトから買うんだー!

*2:私の環境では、500km走って一回も壊れてません

2011-12-09

新たなる情報のブランドについて

 ちきりんさんがちょっと面白い事を書いていたので、ブログを書く人間としては拾っておきたいと思います。

から私もいつかは、「立派な肩書きがなくても、言っていることに価値があると判断されたら、聞いてくれる人がでてくる。ついてくる人が現れる。」ということを、自分でも証明しなくっちゃ、と思っていました。

「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代へ - Chikirinの日記

 エントリータイトルは「「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代へ」となっていますが、これは若干釣りかな、と感じました。

 このエントリーで言われていることは、「発言者匿名性が担保された上で発言自体が注視されるようになる」ということではなく、「学歴や職歴といった『発言内容以外』のことで判断はされなくなる」ということだと受け取りました。つまり、ブランドの根拠が変わってきた、ということ。

 情報ブランドと言うのは、単純に言えば実績から来る信頼感のことです。これまでの情報ブランドは、主に知名度・学歴所属団体など、その人自身の外殻に当たる部分によって決まっていました。テレビに出る・本を出す人だから正しいだろう、学歴があるのだから正しいのだろう、という、メディア所属学校組織の実績に応じた捉えられ方をしてきました。結果、メディア偏向報道であったり御用学者意見がそのまま通るような節があった訳です。

 ところが、Webネットワークによってそのブランド検証されていくにつれ、徐々にメディア学歴などは信頼感を失ってきつつあります。テレビで言っていることや、学歴のある人が言うことが決して正しいわけではない。そうやって徐々に信頼を失っていきつつある。つまり、ブランド価値が減ってきているということです。確かに確度は高いですが、決して学歴・知名度=信頼度とは繋がらなくなってきている。

 一方、個人ではどうかというと、情報を発信しブログサイトで積み上げることが容易になってきています。積み上げた情報Twitterをはじめソーシャルメディアによって共有することもまた容易になってきています。その積み上げた情報がより正しい・利便性がある、ということになれば、広く共有され、その積み上げ自体に信頼が生まれ、価値を生み出してくるという訳です。「あのサイトの◯◯さんが言っていた」ということが価値を生むようになってきます。

 ということは、やっぱり「誰が言ったか」というのは消えないんですね。故に「若干釣り」と最初に書きました。

 とは言え、ちきりんさんの言われる『誰』が発言者の発言内容以外の外殻部分を指しているのだとしたら、まさに同意です。

 今後は、発信した内容の積み上げがブランドに大きく影響を与える時代になっていくでしょう。あくまでも予感ですが、私もそう感じます。

 元のエントリー意図だと私が受け取った部分が、どうも伝わりにくいのではないかなあとTwitterなどでの反応を観ていて感じたため、エントリーに起こしてみました。いかがでしょうか?

2011-11-30

自分は自分の敵か、味方か

 先週の『めだかボックス』で、こんな台詞が出てきました。

自分は味方だよ

信頼すべき己を敵としてしまったときこそ

人は心の敗北者になってしまうのさ

 今回は、この話に纏わるようで纏らないような話です。

挑戦の際に表れる2つのキャラクター

 何かに挑戦する時、一人の人間の中に2つのキャラクターが生まれます。それが『勝とうとする自分』と『負けようとする自分』です。

 『勝とうとする自分』とは目的を達することを第一にして、そのために打ち込もうとするキャラクター。『負けようとする自分』とは楽をするために、苦から逃げるために挑戦を終わらせようとするキャラクターです。

 『勝とうとする自分』と『負けようとする自分』というのは、つまり無意識自分のことですね。

 どうしても「勝ちたい・勝たなければならない」という感情が強く『勝とうとする自分』が強い状態なら、無意識の間に勝つための方法を考えるように視線が向います

 逆に「負けてもいいかも・負けたほうが楽」という感情が強く『負けようとする自分』が強い状態なら、負けてもいい理由を見つけるように視線が向かいます。そして、観た方向に結果は動いていくのです。

勝負事の際のキャラクター

 これが一対一の勝負事となると『勝とうとする自分』『負けようとする自分』『勝とうとする相手』『負けようとする相手』と4つのキャラクターがその場に現れます。そこで、駆け引き。「『負けようとする相手』をいか自分の方に引っ張り込むか」ということになるわけです。

 『勝とうとする自分』は常に味方ですから、それはあまり考えなくても良いと思います。問題は『負けようとする自分』です。こいつは油断をすると直ぐに相手に寝返ってしまう。「相手が強いんだから仕方が無い」「準備ができてなかったから仕方が無い」と。

 自分を味方にする、というのは『勝とうとする自分』を鼓舞し『負けようとする自分』をいか自分側に引きこんでしまうか、ということです。『負けようとする自分』は敵ではなく、受け入れて飼い慣らすべき味方だという訳です。ツライのも苦しいの解った、ならそれから解放されるために勝とうよ、と。逆に、一般的に言われる「自分に勝て」というのは『負けようとする自分』を潰して弱くして、寝返られてもいいようにする、ということです。

 と、考えると、この引用した漫画台詞も、世間一般で言われている「自分の敵は自分」も、言ってることは結局は同じで、違いは「自分の弱さに対してどう向き合うか」なんじゃあないか、と思うのです。自分の弱さを受け入れてやるか、切り捨てて潰そうとするか、ただその違いなのではないでしょうか。

 私としては、弱さも全部含めて自分を受け入れて、その上で飼い慣らす方が良いと思うのですけれどね。だから私にとっては「自分は味方」です。みなさんはどうでしょうか?