第24回 錬金術の叙階定式書 第5章(7)

さて、学識深くも四つの元素が結合し、事物の互いがそれ自身の適正なありようで整ったならば、我々は完全化に至るまでの煮沸の様々な段階のなかに、次々に連続して変化する色彩を目前にすることであろう。これは物質が自然の暖気にあおられて滾り沸くからである。この熱は、眼にも見えず感じられず、触れることもできないのであるが、我らの物質の内部にそれが存していることは、知性によって判別されるのである。この作用を知る者は殆どいない。外部からの人為的な熱の影響によってかきたてられたこの内奥の自然熱が、活発に喚起された性質を働かせ、そうしてそして物質が堪え忍ぶことになる様々な変化を生み出す。これが、我らの作業のなかで夥しい色彩が立ち現れるという、賢者らの説くことの因である。このような、外側の熱と内側のそれの違いを混同してしまうことで、この術の学問には多くの過失が起こってきた。如何にしてこれら二種の熱が互いを補完し刺激し合うのか、そして我らの作業で二つのうちのどちらが支配力を有するのかという問題は、生物の創造過程との類似、そしてそれ以上に、特に人間の体内におこっている消化ということとの類似から、これを学びとる必要がある。「我らの石の生成は、人間創世との類似をみせる」というのはモリエヌスの至言であり、また、レイモンドはこの過程に四気質の四段階がすべて揃っていると記した。このように、人間が創造される過程と、我らの石のそれが酷似しているために、この世にはただ人間と我らの石のふたつの小宇宙しかないとまで言われてきた。

内部の熱、外部の熱、という話題からはちょっとズレるというか、対象の範囲が広がってしまうかも知れないが、火や熱についてはマイヤー『アタランテ』の象徴17以降が具体的なヒントになっているか、と思われる。
近年あまり苦しまなくなったが、かつて花粉症の症状が酷かったころ、体質改善の観点から漢方の薬屋に相談した(いや、たまたま飛び込んだ薬屋が漢方系だったんだ、たしか)ことがあったが、「夏にずいぶん酒飲むでしょ」と見抜かれたことがある。どうやら、体内に蓄積された水分が、気候の暖かくなる時節の「外部熱」と「乾」気によって盛んに励起される一方、鼻粘膜といういかにもSubtleな境界が「内部と外部の弁証法」の能力を失うために鼻水ズルズルになる、ということらしい。なにやらイガイガした植物の花粉という物質が人体を刺激するという、文字通りの花粉症については、それ以来かなり懐疑的になってしまった。というか、花粉症というシロモノには、人体内部の「湿」が原因の場合と、環境問題も含めた外部の「熱」〜「乾」に起因する外部的なものの2種類があると考えるべきなのではないか。春先になってちょっとムズムズするからといって、ゆめゆめ変なCMに騙されて強力すぎる薬品を購入して一時の安楽を求めて(求めさせて)いるのは、どうもコレいろんな欺瞞がように疑われてならない。「消化」からくる人間の病気や気質の問題も、多分にこういうことと関係がある気がする。あくまでも「気がする」程度のハナシではあるけれども。
で、「我らの物質」が、こうした内部と外部の弁証法にさらされて、それでも自身が「存在」していることに悶えモダエて、いろんな色をオモテに現しながら呻吟する。錬金術がいじくるこの物質は、擬人化すればまさにホムンクルスだ。そのうえ、コイツはいまだ、この世の万物のなにものでもなく、同時になにものでもあるという、まさにTheory of Everything、万物理論なわけで、そうであれば確かに「この世にはただ人間と我らの石のふたつの小宇宙しかない」といえるわけだなあ。